大江戸雑記


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瓦版(かわらばん)
2015/04/14

瓦版(かわらばん)--現代の【大衆雑誌】

 江戸で大流行の瓦版。瓦版というと、今の新聞のルーツだという印象が強いでしょう。
確かに、火事や地震の情報をそこから得るというということもあります。でも、
江戸市内に無数に登場した瓦版のほとんどは、どちらかといえば、今の大衆雑誌の
ような性格です。「瓦版」という呼び方は一般的ではなく、「読売り」「辻売り」
「一枚刷り」などといいます。
 瓦版は大きく分けると二種類あります。
 ひとつは、夕方頃から街に出て、頭に手ぬぐいを載せて、竹の棒で軽快に
叩きながら歩く瓦版売り。三、四人囃し方を連れ、三味線で囃しながら、歌うように
ゴシップネタを売り歩きます。ネタを仕入れて飲み屋で盛り上がろうなどという時に、
皆がこれを買っていきます。
 「三つ目の人魚が越中湾に出た」など、耳目を引く大ボラが載っています。
脇のところに目が三つあり、顔にも目があるから全部で五つ目。頭三尺五寸
(約一メートル)、身の丈三丈五尺(約十メートル)もある、鯨のような大人魚です。
 これはニ色刷りでけっこう売れた評判の瓦版で、人々は、みんなインチキだと
わかってもいても買っていきます。「アハハですめばいいじゃないか」と、だまされる
ことさえ楽しむ気風が江戸にはあるのです。「瓦版は話三分」という言葉があって、
「七分はだまされようじゃないか」と皆思っています。瓦版売りは、名調子で皆を
寄せ付けますが、その名調子で喋っていることと、瓦版の内容が食い違っていることも
あります。
 作っていたのは、定職に就きたくない人たちです。筆の立つ人とお話が得意な人が
集まって、パッと作ってしまいます。
 お店が頼んで、ライバル店の悪口を書くこともあり、「色が白くなるという化粧水を
つけたら、逆に色が黒くなってしまった」などという記事が載ったりします。縁談を
破談にするために、あらぬスキャンダルをばらまくこともあるのです。そのような、
ちょっと危ない瓦版売りは、売り切ったらサッと引っ越してしまいます。
 もうひとつは、編み笠を被って二人ひと組で、お昼頃に地味に売り歩く瓦版売り。
内容は時事ネタが多く、売り声はありませんが、信憑性があるので、こちらのほうが
売れます。耳打ちするように「何売っているんだい?」と聞くと「こういうネタが
入っているんだよ」と教えてくれるのです。
 正規の出版物でない瓦版は、お上の取り締まりが厳しいので、「地味に売り歩く
ほど、おもしろいネタが載っているのでは?」と思ってしまいます。ご政道を批判
するほど、おもしろいネタだと、取り締まりを恐れて印刷せずに、「筆写」と
いって、一枚の原稿をみんなで書き写して、パッと売ってサッと解散します。
売る側だけでなく買った側も罰せられるので、読んだらすぐに燃してしまうのです。
読み終えたらすぐに始末するという約束で売っている--一番のスクープネタが筆写で
売られています。
 最も売れた瓦版は、火事の速報をする「方角場所付」。どの地域がどれくらい
燃えたかをその日に刷って売り歩きます。なぜその日にできたかというと、地図の
部分に「切り絵図」という、既存の版下を使ったから。その上から、燃えたところを
赤で刷るのです。これは、皆が競って買い求めます。火事のお見舞いに行かなければ
いけないからです。商いのお得意様が無事かどうか、親族が無事がどうかを知って
駆けつけます。これを買い求めるのが遅れると、「あいつは人情がない奴だ」と
いうことで疎遠になってしまいます。刻々と状況が変わっていくので、二版三版と
刷りが重ねられていきます。
 火事や地震などの災害が収まったところで、カラー刷りの事後報告が出てきます。
地震の後だと「なまずちょぼくれ」が誌面に登場。なまずが「ちょぼくれ節」という
おもしおり節に乗せて、事件の顛末を歌って歩くという形になっています。
そうやって災厄を笑い飛ばして、厄落としにするのです。
 瓦版の値段は、事件の大きさによります。三、四文から、高いものだと二、三十文。
今の新聞や月刊誌と同じくらいの相場です。

「お江戸でござる」杉浦日向子より



ちょっとみちくさ「日本の最も美しい場所31選」
2015/03/26

Japan's 31 most beautiful places(CNN)

http://edition.cnn.com/2015/03/24/travel/gallery/most-beautiful-japan

なんと農民も苗字を
2015/03/24

農民だった家からも苗字を記載した古文書が!

『自分のルーツ(祖先)を1000年たどる技術 』より一部抜粋

当メルマガの読者であれば、ご自身の苗字に関心を持ち、いわゆる姓氏(苗字)辞典のようなものを読まれた方も多いのではないかと思われます。

江戸時代に武士をやっていた家であれば、代々苗字があった訳で、そうした姓氏辞典である程度の出自が分かるかもしれないが、農民や町人(商人・職人)だった場合には江戸時代は苗字は無くて、明治になって地名などから適当に付けたのだから姓氏辞典の出自は参考にならないのではないか?と、考えた方も多いと思います。

しかし・・・

近年の研究では、農民でも苗字を持っていて、それをきちんと認識していた割合は結構高い・・・と、言われるようになってきました。

実際、私がご依頼をいただいた各家のご先祖様調査をしてみますと、農民であった家からも苗字を記載した古文書が出てきます。

公の行政文書(たとえば、宗門人別帳、役所への陳情書など)には、はばかって苗字は書きませんでしたが、内々の契約書類などには苗字が書かれているものがあります。

たとえば、分家をする際に本家と分家の間で交わす契約書の中に苗字や家紋を譲るという内容があったりもします。

どれくらいの家が江戸時代中に自家の苗字を認識していたのか? それは残念ながら不明です。

確かに自家の苗字を認識していなくて、明治になって強制的に苗字を名乗らせられることになった際に「カッコいいからこの苗字を選んだ」「仕えていた家の苗字を貰った」「住んでいる地域の名前をそのまま付けた」というケースも多分にあったことは事実ですが、それはそれで調べていくと分かったりもします。

まずは、江戸時代に農民であっても町人であっても現在の苗字は江戸時代以前から名乗っていた可能性は高いと考え、姓氏辞典なども参考にして考えていくと良いと思います。


『自分のルーツ(祖先)を1000年たどる技術 』より一部抜粋
ネット検索「My Cloud トピック」より

「片目だし」
2015/03/08

相手を思いやる江戸しぐさ 
「片目だし」(かためだし)

事故を避ける江戸の道路交通マナー。

江戸の町屋は玄関を開けたら、すぐにそこは道である。
庭付きで堀のある家は、大店の主人か武家の屋敷だけであった。

だから家から外へ出るとき、勢いよくでることははばかられた。
戸を横に開けたらまず顔を出し、右を見てそして左を見た。
基本的には左側通行でした。

このしぐさは、子供の頃より叩きこまれていましたから
左右も見ずに勢いよく飛び出す子供はいなかったそう。

『向嶋言問姐さん』

韋駄天しぐさ
2015/02/25

相手を思いやる江戸しぐさ 
「韋駄天しぐさ」(いだてんしぐさ)

韋駄天とは、足が早い人をさす言葉で、仏教の僧や寺院の守り神の名称である。

江戸の往来は行きかう人で混雑していた。
その中をやたらに走ったら事故のもとになる。
そこで往来は、静かに歩くことと決められていた。

「韋駄天しぐさ」とは、往来を走ることを言う。やってはいけないしぐさ。

参勤交代 その実態
2015/02/14

「江戸こそ故郷」の大名たち
    国元の意識薄まる

江戸時代、幕府が大名を統制する政策として「参勤交代」があった。参勤交代は
一般的に「原則として隔年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に
居住して将軍の統帥下に入る制度」(『広辞苑』)と、説明される。こうした認識を
もと、私たちは長い間、大名にとって国元=拠点(ホーム)、江戸=異境(アウェー)
と考えてきた。
 しかし、8代将軍徳川吉宗のブレーンで儒学者の荻生徂徠は、大名たちが
「いずれも江戸そだちにて、江戸を故郷と思う人なり」(『政談』)と述べている。
また、江戸後期の幕府編纂書『徳川実記』も、参勤制度が乱れ、東海道沿いの大名や
播磨の大名たちが皆、江戸にいる事態を指摘して、「妻子をも、みな府内(江戸)に
置くこととなりしかば、封地にあるよりも、参府することを楽しむ時情となれり」
と、大名たちが妻子のいる江戸での生活を楽しんでいたことを明らかkにしている。
 参勤交代制度のもと、江戸時代の大名の多くは、江戸生まれ、江戸育ちのシティ
ボーイであった。例えば、元禄時代の播磨赤穂藩主の浅野長矩は、寛文7年(1967年)
に江戸鉄砲州(東京中央区)の上屋敷で生まれ、育った。
『忠臣蔵』では悪役の吉良義央が「この田舎大名がと軽蔑するが、長矩は都会人
だったのだ。また、幕末期の陸奥会津藩主の松平容保は、天保6年(1835年)に
美濃高須松平家の六男に生まれ、会津藩の養子となった。私たちは岐阜県から
福島県への引っ越しをイメージするが、実は江戸四谷(新宿区)の高須藩上屋敷から、
和田倉門内(千代田区)の会津藩上屋敷への移動であった。彼ら藩主の多くが
なじんだのは、国元より江戸だったのである。

 江戸は、藩士にとっても重要な地であった。元禄時代の大名評判記『土芥冠シュウ
記』には、常陸水戸徳川家は「江戸詰め藩士は行儀がよく国本藩士は劣る」とあり、
肥前松浦家は「江戸詰めは江戸生まれの新参者が多く、藩主松浦鎮信は器量良しを
好むので容姿端麗の者が多いが、彼らは国元に行くことを嫌がる」と記している。
紀州藩の史料には、容姿が劣る者や病人は江戸勤番に任命しなかったことが記されて
いる。全国約260藩の屋敷が集中する江戸は、諸藩の対面や見栄がぶつかりあう場
でもあったのである。

 大名たちのこうした志向が、藩内の力関係に影響を及ぼすこともあった。
後期水戸学の思想家藤田東湖によれば、「江戸の邸と水戸と他国の如くなりて、
定府の人は水戸の人を田舎者と嘲り、水戸の士は定府の士を軽薄者と謗り政事の
妨げになりぬれば」と、江戸詰めと国元藩士の対立は厳しかったという。
それだけでなく、「江戸は御膝下の儀にお御座候間、何となく江戸の方におされ候
勢いに相成り候」と、将軍の「御膝下」江戸が国元を押し込んでいるとも述べている。

 諸藩の屋敷が集中する江戸は、全国の政治機能が集中・蓄積された首都であり、
大名の多くは首都で生まれ育った者たちであった。「国元」から「江戸」へという
ベクトルではなく、「江戸」から「国元」へと向いていたのも当然といえる。
これらの指摘は、江戸時代の藩政=地域政治(国元の潘官僚)と、江戸の首都機能
(幕府官僚と藩邸官僚)の関係、役割の見直しを要請する。
大名の国元での存在を重視する「名君」「暗君」史観、あるいは「地方の時代」と
してイメージしがちな江戸時代像は、再検討を迫られている。
               「読売新聞15.2.11より」


画像:水戸藩の江戸藩邸庭園だった小石川後楽園(文京区)は、
   大名たちの江戸での暮らしぶりをしのばせる。



大江戸アラカルト(最終回)
2015/02/06

江戸アラカルト(6)

・寺子屋
 幕末期の江戸府内での就学率80% 7〜8歳から12,3歳

・酒
 酒の自家醸造が禁止され、ドブロクを作った農民がどんどん
 逮捕されて刑務所に収監されるようになったのは、明治32年
 からで、日清戦争の結果苦しくなった国家財政を酒造税で補う
 ためだった。

・桜
 江戸のナンバーワンは上野の山。
 しかし、上野は寛永時の境内なので、歌と踊りはかまわないが
 三味線や太鼓などの楽器を鳴らしてはいけないとか、魚を食べて
 はいけないとか、日が暮れると山内から追い出されるとか、いろ
 いろ小うるさい決まりがあった。 
 18C前半の享保年間になると、江戸市民が気軽に花見に行ける
 場所として、苦労人の八大将軍吉宗が、王子の飛鳥山、品川の
 御殿山、向島の隅田川堤、小金井堤などに桜を植えさせた。
 中でも飛鳥山は上野の代わりに大勢の民衆がつめかけた。
 亀戸天満宮の藤や不忍池の蓮、下谷の朝顔(市)、尾久の原(荒川区)
 の桜草。

 
・屋台(天秤棒で担ぐ振り売り)
 天麩羅 寿司 蕎麦 うどん ところてん 汁粉 団子
 飴 冷水 飴湯 甘酒

・飲食店
 新興都市であった江戸では、明暦の大火(1657)頃までは飲食店の
 たぐいが全くなくて、外出する時は弁当持参でないと食事に困った
 という。

・百川(ももかわ) 浮世小路に相当するのは、中央通に面して
 いる室町二丁目の三井信託銀行の向かい側、第一勧銀日本橋支店
 と東北銀行東京支店の間から、昭和通に通じるあまり広くない道と
 考えられる。
 棒振りの夜鷹蕎麦あたりを最下級の外食とすれば、百川は最高級の
 部類。30数年後、来航したペリー提督を供応するための料理を
 担当したほど。
 この時代の高級料亭 浅草山谷の八百膳 深川の平清 柳橋の万八楼
 葛飾の葛西太郎 などが百川とならんで有名。 今なお健在なのは
 十代目当主が経営する八百膳のみ。

*一人前の大工の年収が25両程度。

*旗本五千二百余騎、御家人一万七千三百余家
 武鑑 武家の人事興信録(組与力以上)

『足ることを知る人にのみ、この世は豊かである』

●一両の重さ
初期の慶長小判 18g(4匁8分)
文政小判 13g強(3匁5分)
最後の万延小判 3.3g(8分8厘)

金一両が四分、一分は四朱、一朱は16分の1両

両や分、朱は、金貨が銀貨だが、銅貨との換算率は、この当時の相場では
一両がおよそ銅銭六貫文つまり六千文だから、1朱は、400文弱になる。
しかも、この四進法の単位とは別に、銀何匁という普通の十進法の単位も
あって、すこぶるややこしい。
買い物をする時は、16文といわれれば銅銭で、1分といわれれば
金貨か銅貨で、二両なら金貨で、20匁なら銀で払うのが原則。
その計算には専用の換算表、その程度の計算ができないようでは、
商人はつとまらなかった。

・「お江戸日本橋七ツ発」 
 明六ツが夜の白み始める時間、七ツはその一時前になる。 
 大まかには四時ごろと考えていい。

・名所
 尾久の桜草 亀戸の藤 大久保のつつじ 染井のさつき
 鶯は根岸 ほととぎすは白山 虫は道灌山

『全国の優等生がたった一つの大学を目指して、ほとんど同じ内容
 の勉強をしている現代社会では、環境の変化に対する適応性は、
 当時よりさらに低くなっていると思われる』

<ニッポンの旅>
・三貨 金貨、銀貨、銅貨  いわば円、ドル、ユーロが国内で
    普通に通用しているような状況だった。
「江戸の金遣、大坂の銀遣」
 江戸を中心とした東国では金貨、 大坂を中心とした西国では銅貨が
 主要な通貨。
金貨は四進法、銀貨は重さ。            
金貨の場合は 一両=四分 一分=四朱 したがって一両=十六朱
金貨としては、一両小判の他に0.5両相当の二分金、その半分の一分金、
その半分の二朱金、さらにその半分の一朱金などがあり、時代によって
実にさまざまなコインがあった。 天宝通宝を除けば、小判以外はすべて
長方形か正方形に近い形だった。また銀貨にも一分銀、一朱銀があり
かなり複雑だが、両、分、朱で表示しあ金銀貨は「計数貨幣」と
いって表明に刻印してある金額として通用した。
「秤量貨幣」
秤で計量 匁 重さ
商業都市 大坂 四進法のように大まか単位ではこまかい計算ができない
ため、銀何匁という十進法の単位が便利。その代わり、秤量貨幣の
銀貨の表面には価値を示す数字の刻印がなく、やや大型のなまこ型をした
「丁銀」と直径15ミリ前後の碁石型をした「豆板銀」があった。
いずれも重さが一定していないため、大小を適当に組み合わせながら
秤で計って必要な重さにできた。
●金貨と銀貨の換算率は、江戸時代初期の慶長13年(1608)に金一両=
銀50匁の固定相場で始まったが、銀の相場が下がったため元禄13年
(1700)には金一両=銀60匁に改められ、公式にはそのまま江戸時代
末期まで続いた。ただし、一両小判中の金の量は改鋳のたびに変わったし、
銀の相場も変化するので、実際には金銀貨の交換比率は絶えず変動
していた。

・「往来手形」
江戸時代の旅行に必要なパスポートは「往来手形」あるいは
「通行手形」「通行切手」などといって、一種の身元証明書でもあった。
場合によっては発行者が違っていた。武士なら藩の担当役所、庶民なら
自分の檀家になっている寺、村長に担当する名主、庄屋が出す場合も
あった。手数料は数百文程度。 一定していないが、氏名・生年・住所の
ほか、所属する宗教を書くのが普通。誰でも自由に旅行。

・江戸から京都まで約半月

○火消し
・大名火消し 六万石以下の大名
・定火消し(じょうびけし) 旗本
・町火消し 「いろは48組」 ひ、へ、ら、ん 縁起・語呂が悪いので欠番
 替わりに百、千、万、本

○三社祭
浅草寺のご本尊の金の「観音様」は檜前(ひのくま)三兄弟が隅田川の
川底からすいき上げたとの伝承がある。その三兄弟を祀っているのが
三社様で、ここの祭りが三社祭。

○町奉行(司法と行政)
与力、同心は290人(時代により多少の増減)
与力各25騎 同心各120  南北 同心は与力の部下として働く
・三廻り(同心)・・廻り方 町奉行直属
定町廻り、南北併せて12人
臨時廻り、同数
隠密廻り 2人

八丁堀の与力には、同心が4〜5人つき、同心には岡引が2〜3人つき
岡引には4〜5名の手先がつく。その手下は下っ引きを使っていた。

岡引に与力、同心から払われる給金は、下女でも年に3両の時代に
わずか年に一分(一両の四分の一)。とても配下の者を養える額では
ない。 彼らも、湯屋、小料理屋など、表向きの商売をし、収入の道は
別にあった。
与力の俸禄は二百石だが、大名屋敷から内々の金が入った。同心は
三十俵二人扶持だが、町家から盆暮れをふくめ、相当の物をもらっていた。
それらの金が岡引に流れた。 吉原、深川などの遊所から毎月170両の
献金、南北町奉行所に。流用。

○江戸の刑法
懲役刑は存在しなかった。主要な刑罰は、死罪と追放刑。
牢屋敷は拘置所ないし留置所。

○理想の男
 与力、相撲に火消しの頭
江戸の女は、優柔不断な男は上方者らしいと嫌った。
粋で鯔背で勇ましいのが好まれた。

<無念なり>
直参の生活は金融業者となった札差のその行く末を握られている。
・貨幣の流通は三貨制度であった。
 金と銭が中心の江戸。銀を中心とする大坂。
 金一両は銀六十匁が公定相場。金一両は六千文(六貫文)が相場。
 大名、旗本貸し 年一割八分の利息。
 江戸三百軒の両替商は三百諸藩に貸付を行い、各藩はもはや両替商なしには
 やってゆけない。

 
・四宿(日本橋は各街道の起点)
 東海道の第一宿は品川宿
 甲州街道の最初の宿は内藤新宿
 中仙道の第一宿は板橋宿
 奥州日光街道は千住宿


<幕末下級武士の絵日記>より、武士名:石城
 
○幕末期の物価:米で比較
いまの標準米1石を約63,000円としてみれば、当時は米一石を銀56匁
ぐらいで買えた。とすrと一両は銀60匁であるからして、67,000円程度に
なる。一両は四千文であるから一文は約16円ぐらいに相当する。よって
一番高いまぐろは4,800円にもなる。魚のたらは1,120円、わさびは320円で、
うとは869円である。三つ葉にしても768円である。幕末の地方城下町に
おける食材はかなり高かったようである。
○石城は行灯絵の料金が高いと言われ嘆いている。三朱で引き受けたが
今の標準米一石で換算すると、一朱は16分の1両であるからして12,000円
に相当する。しかし江戸では百疋、すなわち4万円ほどであった。一疋は25文、
百疋で2500文となり、一文は16円だからである。石城は江戸のそれにくらべて
かなり安いのになあと笑う。
○石城は十人扶持であるから、十人分が年に食べる米が藩から支給される。
一人一日五合として計算すると年に一石八斗となり、十人分だから十八石の
支給となる。   113万円
髪結い料二十八孔(文) 食材は大量生産、採取ではないのでかなり高い。
○城下町
江戸時代の城下町は約300もあった。それは金沢、仙台の約12万人の
大きな城下町から亀田(岩城)のような四千人程度の小さな城下町まで
さまざまである。多いのは一万人前後の城下町であるが、石城たちが
暮らした忍藩の城下町もそのぐらい。
城下町の立地は、東日本は川の流域につくられた@河岸段丘が多く、
西日本は海に面したA河口デルタが多いとされる。
沼を要害(とりで)として、関東平野の内陸に立地する城下町は
このような形が多い。また彦根、膳所、諏訪などの城下町はB湖に
面している。

 
画像:三社祭・日本橋・魚河岸

大江戸アラカルト(5)
2015/02/02

江戸アラカルト(5)

・自身番
 江戸では家主が5人1組で5人組という組を作り、月行事(ガチ
 ギョウジ)とい月番を決め、一月交代で自身番という詰め所に詰める。
 橋のたもとや大きな道が交差している近くなどに火の見櫓を立てた小屋。

・水切れ
 今でいう水道の工事断水。19cに入ると、反吐の地下に網の目
 のように張り巡らせてある木製水道管の腐食がすすんだため、
 工事断水が増える。 町触れは自身番止まり。

・三日法度
 お上の法度。次々に出て、皆すぐに忘れます。

・五人組の仕事の給金
 書役の給金は、町人用から払いますが、町役は、家主の仕事の
 うちということで、とくに給金は出ませぬ。 大家さん二万人の手弁当
 により江戸の行政が成り立っている。


☆現在入手できるもっとも精密な江戸地図である朝日新聞刊「復元 江戸情報地図」 
一般に江戸府内ということになっているいわゆる朱引内、つまり寺社が
 寄付金を集められる勘化場(かんげば)の面積49,609,300坪の内、武家地
 34.5%、町屋9.9%、河川3.6%に対して百姓地はなんと47.6%である。
 町奉行所支配地の墨引内でさえ、面積30,945,200坪の内、武家地49.8%、
 寺社地6.6%、町屋14.9%、河川4.1%に対してなんと24.8%である。
 明らかに間違い。江戸の総面積の約半分から四分の一を占める農地面積が
 ゼロになっている。

・町火消し
 鳶職を組織。いろは48組。へ・ら・ひ・んの4組だけは、語呂や
 縁起が悪いというので、百・千・万・本に置き換えている。また
 隅田川の対岸の本所・深川には、これとは別組織の16組があった。
 神田あたりはよ組の管轄だが、火災が拡がると周辺のい組やに組、
 万組も駆けつけた。

・火消し組
 組頭 纏持ち 梯子持ち 平人(ひらにん) 人足

 「火消しは、すべて仕事師つまり鳶の者が致します。頭取は親子代々
 継いでいきますが、纏持ちは、人足から出世。仲間内から一目おかれて
 おりませぬと、手下がいうことをききませぬゆえ、おのれに度胸が
 あり火事場に慣れているところを常々見せておき、一段ずつ上がって
 参ります。鳶になる者は多うござりますが、纏持ちになれるものは
 滅多におりませぬ」

・江戸時代の人口
 18c以降、江戸時代の人口 ほぼ3000万〜3100万
 最初に人口統計を取ったのが八大将軍吉宗治世の享保6年(1721)頃、
 この時の人口が約2,606万人。幕末期の弘化3年(1846)で約2690万人。
 120年間ほとんど変動がなかった。ただし、この人口は、武家・公家・
 寺社人口、差別されていた身分の人の数が入ってない。3000万人と
 いうのは、後世になって、統計外の人口を推計して修正した概算値。

・江戸時代の米の生産量
 明治初年の近代的の統計では、3000万石つまり450万トン強。
 各地の断片的な資料によれば、明治初年の米の生産量は19c初期
 と大差ないので、江戸時代後期には、毎年ほぼ3000万石の米がとれて
 いたことにしても大きな間違いはなさそうだ。
 かって人間一人が一年間に食べた米の量は、平均すると一石(150kg)
になる。

 一町歩(1ヘクタール)の平均収穫量、40俵(2.4トン)。

・物価
 江戸時代の物価はきわめて安定。
 そば一杯が16文に決まったのが寛文8年(1668)、20文に値上げに
 なったのは、江戸時代の最後の慶応年間(1965〜67)だったそうだ。
 湯銭(銭湯入湯料)が大人一人6文に決まったのが寛永年間(1624〜43)
 で、8文に値上げになったが天保14年(1843)だから、こういう
 基本的な料金は200年かそれ以上も変わらない。

・隅田川
 明治5年(1872)頃までは、隅田川の遊覧船で、茶をいれるのに
 川の水を汲んで沸かした。
 「すみた川 水の底まで涼しさの とほりてみゆる夏の夜の月」

☆「復元 江戸情報地図」朝日新聞社 H6年(1994)
・黒引内(町奉行管轄)
 農地24.6% 武家地49.8 寺社地6.6 町屋(一般市街地)14.9
 河川4.1 (総面積3,134万坪=103平方キロメートル)
・朱引内(広い意味での江戸府内)
 農地47.4 武家地33.7 寺社地5.4 町屋9.9 河川3.6 
 (総面積4,961万坪=164平方キロメートル)
(大江戸と呼ばれる地域の内、黒引内では四分の一、朱引内では
 約半分が農地)

☆渡辺京二著「逝きし世の面影」葦書房 1998初版
 外国人による幕末から明治初期の膨大な記録の内容をきわめて
 冷静かつ客観的に整理、分類、解説。

「足ることを知る者にとってのみ、この世は豊かである」

・陶磁器
 江戸時代の技術の基礎は、室町時代の末にはほぼ出来上がっていた。
 陶磁器も製造技術は完成していたが、庶民の間に普及したのは、
 江戸時代中期以後だった。江戸時代になっても食器の大部分は
 木製で、木をろくろで挽いた椀や鉢を使うのが普通だった。
 高級品が漆器。 庶民が陶製の食器を使い始めたのは、江戸でさえ
 18cの後半からで、いわゆる瀬戸物の方が普通になったのは、
 江戸の最盛期だった文化文政期(1804〜30)に入ってからだ
 何々焼き 日本に2,000以上 大部分はこの時代以後。

・越後屋
 江戸最大の商人は、後の三井財閥の全身である越後屋だった。
 現在の東京日本橋の三越百貨店から三井本館あたり一帯、
 日本橋駿河町全体を大きな本店が占めていた。といっても
 面積はせいぜい4ヘクタールにすぎない。
 19cのはじめ頃、越後屋の一日の売り上げは、最大で
 2000両にも達した。

☆江戸時代中期 『米安の諸式高』米価が安値で安定する一方で、
 諸式つまり米以外の商品が高値で安定。

『野菜は四里四方』

・いいとこどり(明治維新)
 工業 イギリス 医学 ドイツ 美術 フランス 合理性 アメリカ

『正法に奇特なし』

・江戸湾でとれた魚介類
 日本橋北詰めの東側と芝の海岸(芝浜)にあった魚河岸に集められ、
 江戸市中に散っていった。 日本橋の魚河岸は大規模
 関東大地震後に築地に移転
 この当時、江戸で一日に千両単位の金が動くのは、魚河岸と芝居町、
 それに新吉原遊廓だけと謳われた。
 天保の改革で浅草に追いやられるまで、江戸歌舞伎の中心は、魚河岸
 から歩いて十分もかからない葺屋町、堺町(現在の人形町交差点の
 北西の一角・現人形町三丁目)。 

・新宿
 肥料の産地
 「四谷新宿、馬糞の中に、あやめ咲くとはしおらしや」
 あやめ=遊女

・長屋
 文化文政(1804〜1830)人口を大ざっぱに100万人 半分武士
 半分町人 長屋30万人 裏長屋がもっとも多い。

 標準的に一棟ぶんの 間口 9間(16.2m)奥行きが2間半(4.5m)
 これを六軒に等分。 したがって一軒の間口が9尺(2.7m)
 奥行きが2間半。  俗にいう「九尺二間(くしゃくにけん)」の
 棟割り六軒長屋。 面積は3.75坪(12.4平方m)だが、入った所が
 かまどと流しのついた台所を兼ねた土間になっているから、奥の畳
 の部分は四畳半だけ。二階のある構造は案外多いが、面積はこれだけ
 だから、まともな階段のつけようもなく、二階の床にあけた梯子を
 かけて上り下りするようになっていた。

・熱海
 25里(100km)片道に3日。往復だけでざっと一週間。
 7日を単位に宿泊。 三回り滞在すれば一ヶ月になる。経費も往復の
 費用をいれて二両ぐらいかかる。 温泉へ行くための無尽が盛んに
 行われた。

・湯屋(ゆうやと発音したようだ)
 江戸 据風呂  関西 五右衛門風呂
 相当な大家(たいか)ではない限り内風呂なし。あっても使用人は
 銭湯へ。 江戸の銭湯は、どこの町内にも一軒はあったそうで、
 幕末期には、市中に600軒もあった。

・お伊勢参り
 遷宮の年は特に参拝者が多く、中でも、文政13年(1830)
 北は奥州、南は九州から、500万人。 当時の全人口の六分の一
 伊勢参りは親でも反対できない、不文律。

・東海道53次  京都の三条大橋〜江戸の日本橋 125里(490キロ)
 三都 江戸・京都・大坂
 19C前半の文化文政から天保年間にかけては、大名の参勤交代は
 別にしても年間200万人もの旅人が通ったという。
 一日当たり5000〜6000人
 18Cの初 一日300文あればなんとか旅 一泊二食 150文 中ぐらいの
 旅籠   大工の日当が500文
 単純に計算 14泊 片道 4200文 
 コインの目方で 寛永通宝の一文銭(銅銭)は、現在の10円銅貨の
 三分の二ぐらいの目方。 一文を6円とすれば、4200文は25,200円
 新幹線の値。

・製紙大国
 18cから19cのはじめ頃、半紙一帖(20枚)が15文から20文。
 大工の日当4〜500文。量・質すぐれていた。

画像:自身番・火消・屋台

ちょっとよりみち「N.Yの夜景」
2015/01/30

「N.Yの夜景」

http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e4%b8%8a%e7%a9%ba2300m%e3%81%8b%e3%82%89ny%e3%81%ae%e5%a4%9c%e6%99%af%e3%82%92%e6%8d%89%e3%81%88%e3%81%9f%e4%b8%96%e3%81%ab%e3%82%82%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%84%e5%86%99%e7%9c%9f%e3%81%a7%e3%81%99/ar-AA8ET25?ocid=iehp

大江戸アラカルト(4)
2015/01/27

江戸アラカルト(4)

・成人男子の平均身長 156cm

・市村座
 料金 銀35匁 茶屋にチップ一分(四分の一両=銀15匁)合計50匁
 銀60匁が金一両で、一人前の大工の賃金が月に二両程度だった時代
 だから、ここで一日座って芝居を見ようとすれば、大工のほぼ半月分
 の稼ぎが必要なのだ。

・面積
 町奉行管轄の江戸の市部の範囲が、69.9平方キロ。現在の23区の
 591.9平方キロの約8.5分の1. それでも、同時代のロンドンの市部
 3.5平方キロ、パリの32平方キロに比べればはるかに広い。

・子供
 幕末期から明治にかけて日本に来た外国人が、日本の子供は幸福そうだ、
 と記録している例は多い。東京大學へ動物学を教えに来たモース博士が
「世界中で、日本ほど子供が親切に扱われ、そして子供のために深い注意
 が払われている国はない」(日本その日その日 石川欣一訳 平凡社)

・三越
 日本橋、このころの越後屋は、一日の売り上げが二千両に達することも
 あった日本一の豪商。 二千両といえば、ほぼ農民五千人の年貢に
 相当する米五千俵(300トン)の値段。そのほかに地主として貸して
 いる土地から上がる地代収入が年間二万両。これだけでも五万石の
 大名領の所得。

・浅草鳥越の幕府の天文台
 岡の高さは5間(9メートル)
 明治5年まで続いた陰暦(太陰太陽暦)、このかなり複雑な暦を
 作るための天体観測を第一の目的。 <頒暦所はんれきじょ>とも
 読んでいた。 →変遷後、東京大學の理工学部となって発展的解消。

・湯屋(銭湯)

・火
 火打石に火打ち金を打ちつけ、ほくちの上に火花を落として点火し、
 その火を硫黄のついた付木に移して、ようやく炎にしてから、炊きつけ
 に移して燃え上がらせ、次第に太い薪に火を移していく。

・禍福
 福の神と災いの神はきょうだいだから、姉の福の神を招けば必ずしば
 らくして妹の災いの神もついて来る。

・隅田川
 綾瀬川との合流点、つまり鐘淵あたりを境にして大きく西へ曲がる。
 江戸時代は、このあたりから上を荒川、下を大川と呼んでいた。

・「何々です」「何々ですわ」「ですわね」
 辰巳芸者に始まり、花柳界全体に拡がって、やがて標準語化した。
 「です」の方は、江戸では、花柳界の人間としか交際しなかった、
 あるいはできなかった薩長の武士たちが、江戸の標準語と勘違いした
 せい。「ですわ」の方は、芸者用語が、明治期の女学生あたりに広まり、
 とうとう日本の女言葉の代表的語尾になってしまった。

・文化文政期
 十一代将軍家斉の時代、21人の妾に54人の子供を生ませた記録保持者。

・薬札
 文政頃では、三分札と称して、薬一貼つまり一服が銀三分(0.3匁)という
 のが、並の医者への薬札。 往診料などは別。金一両が銀60匁とすれば
 薬二百貼が一両という勘定になる。これが、十年以上たった天保期には
 五分札になってかなりインフレ。 ちょっとした医者の年収は130両。
 年収4千両の幕府の御曲医や、千両以上も稼ぐ流行(はやり)医者には
 及ぶべくもなかったし、その中から薬を仕入れ、下男下女を雇うのだから、
 裕福とはいえない。
 だが、当時の武家の収入を有名な大塩平八郎の例で見ると、二百石取りの
 中士で、手取りは四公六民の八十石。精製すると、白米六十四石で、
 一石一両二分として僅か九十六両の現金収入である。これで一族郎党
 14人が、一年暮らすのと比べれば、貧乏医者の暮らしがそうひどい
 ものでなかったことがわかるだろう。

・貨幣単位 この時代はややこしい。
 (35)匁というのは、銀の目方で、このほかに金貨の両とか、その四分の一
 に当たる<分>、またその四分の一の<朱>などというのがあるし、
 銅銭の<文>もある。しかも、金貨と銀貨と銅貨の間の換算率は
 毎日相場が立っているらしい。
 だから原則として、ある品を10文だといわれたら、それは
 銅銭10文で買わなくてはならないし、20匁だと言われたら銀20匁
 を払わなくてならない。  換算表が何種類か出版されていて、まとも
 な商店なら店先に備えてあった。

・吉原(中央区人形町)
 江戸開府後間もない頃の吉原遊廓は、まずこの辺に建設された。
 場所は現在の人形町通りと明治座の中間あたりだったらしく、一面
 の葭原を刈り取って二町(200メータ)四方の土地を開き、
 ここを遊廓とした。現在でも、その中央を通っていた道が、
 大門通りという名称で残っている。
 吉原の名の起源は、この植物名の葭原であって、これを縁起の良い
 吉に置き換えたのである。
 元和三年(1617)より大火のあった明暦三年(1657)のわずか40年。
 明暦大火のあと、幕府は、吉原遊廓を浅草田圃外へ移させた。これが
 昭和33年(1958)まで続いた新吉原で、不便な場末へ移させた
 代償に、面積を5割拡げ、大門から、水道尻まで135間(243M)、
 横幅180間(324M)とした。

 遊廓だけでなく江戸の女芸者発祥の地は元禄年間、芳町にいた菊弥。
 後に深川へ移る。 

・死罪十両  
 おつりを残して九両三分二朱までにする。

・深川
 は江戸の南東部つまり辰巳の方角にあるため、深川の芸者を辰巳芸者
 と呼ぶ。俗に「意気は深川、いなせは神田」というが、意気と張りで
 売り込んだ辰巳芸者こそが江戸の芸者の主流だった。

・手習い
 日曜のなかった時代の手習いは、<三日(さんじつ)の休みといって、
 毎月の一日、十五日、二十五日に休むのが普通だった。

「この世に、いたずらせぬ手習い子なんておりません」

 この時代の日本の初等教育期間は、寺子屋と呼ぶのが普通だが、
 武士の町である江戸では、学校に商店のような<屋>をつけて呼ぶ
 のを嫌って<手習い>と呼び、寺子屋へ行くといわずに、手習いへ
 行くといった。母親に子供にいう時は、「早くお手習いへ行きな」
 というふうに、上に<お>をつけてていねいにいった。生徒のことも
 寺子屋では寺子というのに対して、江戸では手習い子と呼んだが、
 先生の呼び方だけは共通していて、上に<お>、したに<さま>
 をつけた<お師匠さま>という最高の尊称を使った。
 ていねいな呼び方には、ひやかしや、時として軽蔑の意味を含む
 場合さえあるが、この場合は純粋な敬称で、否定的な意味はまったく
 ない。手習い師匠は、知識を金銭に換える教育労働者ではなく、
 文字を教えることで学問の道を入門させる聖職者として扱われて
 いたし、周囲も本気でそう思っていたからだ。
 19c初頭の江戸には、手習い師匠が1500人ぐらい居たが、
 お師匠様の三人に一人ぐらいは女師匠だったらしい。
 天神机は部屋の隅に積んである。

・「往来」
 もともと手紙文の意味だが、「何々往来」とは寺子屋で漢字を
 教えるための教科書の題名。
 「江戸往来」「大坂往来」「善光寺町名控」のようにそれぞれの
 土地をことを教える地方版もあり、現在残っているだけで
 7,000種類以上もある。  寺子屋の備品(私物ではない)

・「今川」
 道徳の教科書

・江戸の医者
 テレビの時代劇のせいで、江戸の医者は現代の長髪の男のように
 長くして後頭部に髪を結っているように思う人が多いが、ああいう
 ヘアスタイルの医者は古方家(後藤流)という流派に限っていて、
 丸坊主に剃った僧侶のような頭が普通だった。

画像: 手習い・越後屋・隅田川

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