大江戸雑記


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ちょっとみちくさ「今と昔のロンドン」
2014/07/18

「今と昔のロンドン」

1927年と2013年のロンドンの同じ場所の映像が流れる。

http://www.slate.com/blogs/browbeat/2014/01/14/london_in_1927_and_2013_
filmmaker_replicates_old_footage_restored_by_the.html

その間に大英帝国の瓦解等があったというのに、ロンドンがいかに変わっていな
いかが分かる。
 しかし、1927年の画面に登場する人々が、もうほぼこの世に存在しないことが胸
を詰まらせる。

<インターネット検索>

「用心しぐさ」
2014/07/11

「用心しぐさ」(ようじんしぐさ)

犯罪を寄せ付けない工夫!

いつの世にも悪党はいる。
スリ、かっぱらい、
現代でも当たり前に起きている犯罪は、
当然江戸時代にもあった。

町人文化が華やかになると、
屋台や店が多く出て、
人々が集まり繁華街を構成するようになると、
犯罪も多発した。

そのため、繁華街を歩く時は常に周囲に気を配った。
これを「用心しぐさ」と言う。

身なりをきちんとして、
派手すぎず地味すぎず目立つようなおかしな恰好はしない。
用心しぐさができないと、
ぽっと出と見られて狙われた。

『向嶋言問姐さん』

「黒船に見せた日本人の力」?
2014/07/05

「黒船に見せた日本人の力」
 嘉永6年(1853年)6月、ペリー艦隊が浦賀に来航し、日本との通商を求める
アメリカ大統領の国書をもたらした。翌年1月、日本側の返事を得るために
再び来日し、3月に日米和親条約が締結された。いわゆる「黒船来航」として、
広く知られている出来事だ。当時、国内では、アメリカ船やペリーらの姿、
日米両国間で交換された贈答品などを描いた瓦版が多数出回った。
 本資料「下掲:ペリー使節への賜物書上力士米俵運搬図入り」も、このような
瓦版の一つで、アメリカ側からの献上品に対する返礼の品々が日本側から
贈られた時のことを伝えている。瓦版の右上には、返礼品が書上げられており、
大統領やペリーへは蒔絵硯箱や羽二重などの品々、乗組員には米300俵・鶏300羽
が贈られたことがわかる。
 下段には、体格の良い力士が、アメリカ船の乗組員への米俵を軽々と運び、
引き渡す様子が描かれている。米俵一つあたりの重さは約75kg。力士1人が
米俵二つを持ち、中には、この米俵を片手で頭上まで持ち上げるもの、また
お手玉のように放っている者もみられる。一方、受け取る側の乗組員は、
米俵に押しつぶされるそうになったり、3人がかりで一つの米俵をやっと
持ち上げたりと、かなり大変そう。
 並外れた怪力で米俵を運ぶ力士の姿は、アメリカ側の注目を大いに
集めた。力士を動員したこのようなパフォーマンスには、日本人の力を
誇示しようとする幕府の意図も込められていたのだろう。

上掲は「読売新聞6月30日」の記事。、書いたのは江戸東京博物館
学芸員小酒井大悟氏だが、かたや「ペリー提督日本遠征日記」木原悦子訳
を見てみると

「茶番劇」ペリーの日記
 俵のそばに私たちが腰をおろすと、そこへ二十五ないし三十人の巨大な
男たちが行進してきた。腰に細い帯を巻いているほかは素っ裸である。
これほど筋肉隆々たる男がこれほど大勢集まっているのは見たことが
ない。
 人間というより、丸々と肥え太らせた雄牛が並んでいるのを見ているような
気がした。この男たちはプロの力士で、ほとんどが委員たちのお抱えだが、
なかには江戸で評判の力士も一人か二人いた。日本のトム・クリップ(注1)
やトム・ハイア(注2)たちというわけだ。私がその巨躯をたしかめられる
ように、一人が特別に連れて来られた。彼の体が巨大なのは、大量の肉が
ついていたからだ。運動選手についてのわれわれの常識からすると、こんなに
肉がついていて激しい運動など無理ではないかと思われた。
 彼は豪華な衣装をまとっており、自分自身の従者を抱えているようだ。
その従者たちが、ていねいに、またうやうやしく衣装を脱がせると、他の者と
同じ腰回りの帯以外は素っ裸になった。うながされるままに、その太い腕や
二重になった猪首に触ってみると非常に硬かった。私が驚いた様子を見て、
彼は悦に入って自己満足の唸り声をあげたものだ。
 その後、私たちの啓発と余興を兼ねて、裸の巨人たちがそろって米俵を
運びはじめた。最初に置かれていた場所から、艦への積み込みに便利な
海岸近くへ運んでくれたのである。この米俵はひとつ135ポンド(約60キロ)
だったが、二人を除く全員が右肩に二俵ずつ担ぎ上げた。最初の一俵は
自分で地面から持ち上げて担ぐのだが、もう一俵を担ぐのには助けを借りて
いた。さて、例外の二人であるが、一人は一俵を口にくわえて運び、もう
一人は一俵を両脇に抱えて繰り返しとんぼ返りを打ってみせたが、その間
俵は一度も落とさなかった。
 このショーのあいだ、艦隊の楽隊が得意の曲を演奏していた。ショーが
終わると、委員たちの要請に応えて、海兵隊員からなる護衛隊がタンシル
大尉の指揮で機動演習を行った。それがすむころには、レスリング試合の
用意が整い、私たちはまた大広間に戻った。委員たち、私と士官ら、そして
力士たちのために、屋根つき張り出し玄関に座席が用意されていた。
 この「ダニエル・ランバートたち(注3)は、対抗する二つの組に分かれ、
試合に備えて私たちの前を裸で行進した。幕の影に入ると、リングに上がる
ときまではローブを着ている。丸いリングは直径十二フィートほどで、
地面を掘り返してならし、硬いものを取り除いて、ていねいに整えられて
いた。
 一種の先触れを務める人物が合図を出すと、名前を呼ばれた二人の力士が
リングに入り、威嚇するようににらみ合いを始める。これはどうみても
芝居がかっていた。それから、素足で柔らかい地面を踏みつけ、前かがみに
なると、土をひとつかみすくい取って脇の下にこすりつける。また、両手の
手のひらにもすり込んでいるようだった。
 雄牛が攻撃前に前足で土をかくのを真似ているのか、それともほかにない
なにか目的があるのか私にはわからないが、ひどくばかげていると思った。
最後に二人は向かい合ってしゃがみ、敵の視線や動作に油断なく目を
配る。と思うまもなく稲妻のように飛びかかり、腕を相手の上体にからみ
つかせて、こうしてレスリングでもボクシングでもない試合が始まるので
ある。時には、驚くべき腕力によって振りまわされ、地面に激しく叩きつけ
られることもある。怒りの形相もすさまじく、額と額、胸と胸とをぶつけ合う
という攻撃法もあるが、その力のすごいこと、額や胸骨の上の肉から血が
流れるほどである。なかには、あまりひどく負傷したせいで、大きな固い
瘤ができている者もいた。
 試合では、決まってどちらか一方だけがたけだけしく怒りの形相を見せ、
声をかぎりに吠えたり叫んだりする。その声は喧嘩をしている犬のようだ。
察するに、叫んでいるほうが攻撃側ということらしい。というのは、叫んで
いないほうは、怒り狂う敵の攻撃から身を守ることしか考えていないよう
だったからである。これは士官全員が気づいたことであるが、どの試合でも
大声をあげている力士のほうが負けていた。
 この茶番劇は全員がひと試合するまで続いた。帝都で評判の暴れん坊、
小柳(注4)も例外ではない。彼は過流に呑まれた中国のジャンク船のように
ふりまわされたが、当然のことのように勝利し、最高の力士の地位を
保ったのだった。

注1 トム・クリップ・・1781〜1848 殿堂入りしたイギリスの有名な
            ヘビー級ボクサー。
注2 トム・ハイアー・・1819〜64 アメリカが生んだボクシング・ヘビー級の最初のチャンピオン。
注3 ダニエル・ランバート・・1770〜1809 イギリスのサーカスで有名だった
            肥満男。死亡時には体重が約336キロもあった。
            身長は180cm ウエスト285cm ふくらはぎ回り
            94cmという記録もある。
注4 小柳・・「ペリーの欄外追記・私の前に連れてこられた力士」

下掲の写真1は瓦版「ペリー使節への賜物書上力士米俵運搬図」

江戸しぐさ「うかつ謝り」
2014/06/30

「うかつ謝り」
雑踏でのトラブルを避ける両成敗!

ぼんやりしていて注意が行き届かない様を
「うかつ」というが、
このような状態を江戸っ子は嫌った。
「うかつ謝り」とは、
自分の注意のなさを詫びること。

例えば、雑踏で足を踏まれた時、
状況からすれば踏んだ方が悪いので、
「とんだ粗相を致しました」と謝るが、
踏まれた方も、
踏まれる様な所に足を出したという事で
「こちらこそうっかりしました」
と自分のうかつさを謝った。

些細なことから大事になることを、
互いに謝る事で解消する大人の対応である。

勿論、踏んだ側から先に声お掛けるのは言うまでもない!

朝鮮通信使「日東壮遊歌から」
2014/06/21

「はじめは」
「任辰丁酉倭乱」(文禄慶長の役)
俗にいう「朝鮮征伐」。始まりは中国征伐をもくろむ豊臣秀吉。
まず朝鮮と。何ひとつ落ち度のない朝鮮に一方的に兵を出した。
朝鮮側はおおあわて。国土の大半が焦土と化し、多くの犠牲者。
明軍も参戦し7年にわたった大戦乱は、結局秀吉の死によって
終結。結果、朝鮮人にとって秀吉は”万世不忘の讐”として
最もはげしい憎悪の対象となり、日本は倶(とも)に天を戴く
ことのできない(不倶戴天)隣国となってしまった。

「朝鮮通信使」
文禄慶長の役(1592年から7年間)後、しばらくして徳川家康が望み、
対馬藩があらゆる手段を講じて尽力し、朝鮮もまた現実的な判断を
した結果、戦後処理のための使節が朝鮮から来日。時は、1607年
(慶長12年)のこと。この時の500名近い人員からなる使節は、日本
からの書簡に対する回答の伝達、並びに捕虜となった朝鮮人を捜し
出して連れ帰ることを目的としたことから「回答兼刷還使」と称した
(第二、第三次も同様の名称)。これが江戸時代に来日して朝鮮通信使
の最初である。
この後、1811年(文化8年)までの200余年の間に、徳川幕府の
招聘を受けて計12回の使節の来日をみるが、その使命は主として
将軍職の襲職祝いであった。第二次(京都まで)と第十二次(対馬まで)
を除き、江戸城にて朝鮮王の国書を伝達することが最大の任務で
あり、そのために毎回数百名の朝鮮人と、それを上回る日本側の
護衛の人々が対馬から江戸まで、船、駕籠、馬、徒歩などで
移動したわけである。
行列見たさに遠方より旅してきた見物人も珍しくなく、場所によっては
桟敷席まで設けられた程である。のぼり旗は天日を覆い、三絃鼓笛
(さんげんこてき)が鳴り響く大行列は、外国との交流がほとんど
なかった時代において、まさに一大ページェントの様相を呈したで
あろうことは想像に難くない。さらに、宿所や休憩所には当地の
文人が押し寄せ、漢詩の唱和や夜を徹しての筆談が繰り広げられた
のである。誤解や憎しみの交差もあったであろうが、生身の人間と
人間との触れ合いが生み出す肯定的な重みは、大きな財産として
両国に蓄積されていったに違いなく、これは通信使の残した目に
見えないもうひとつの大きな功績といえるだろう。


「日東壮遊歌」
ー朝鮮使節団の一員として見た日本ー
「日東壮遊歌」の作者は進士(科挙合格者)であり儒者の金仁謙。
第十一次使節の従事官の書記。
1763年8月?日に公州の自宅を出発し、1764年8月13日に帰るまで。
復命までの全工程は11か月。日本の滞在期間は8か月以上におよび、
移動中に四季をすべて経験するという長旅であった。病弱老体の
57歳の身には移動だけでもきつかったはずなのに、自分の体験の
得難さをあ認識していたからであろう、日々の出来事を可能な限り
書き記している日本紀行文。

日本の各地の文人との交流に熱い感動を覚え、景勝を称え、
民の生活に共感を示しているが、底意には醒めた眼も。
とくに対馬藩(者)には如実に不信感を示している。
「金銀あらゆるものを 倭の通詞に渡し
 備前の者にやってくれと頼み、部屋に戻ったが
 陰険、邪悪、欲深な 対馬の奴が
 朝鮮人がくれたといい すべて持ち去ってしまったとのこと」
「対馬人の悪行の数々 日増しにその度合いを高め
 昨日も今日も賄賂あり 二人の者が金を持ち去ったが
 その額はかり知れず 数万両はあったという
 そのくせ後になって このことが知れ渡ったら
 死を免れぬ者多いといって 繰り返し口外しないよう頼み込む
 陰険極まりない対馬の奴らが 間にあって勝手に振る舞い
 すべての事を隠してしまうから、何一つ明るみに出なかったが・・」
幕府と朝鮮国との間に立ち、あらゆる術策を講じた小藩対馬の
懸命な生き残り策がうかがい知れる。

ちょっとなまぐさくなりましたが、
<法に優先する道徳倫理--深層理解 日韓関係にも必要
 小倉紀蔵・京大教授>
「韓流好きは正しく、嫌韓は悪」といった二項対立的な色分けを
排する一方で、実は相手を好きになる必要はないという。
氏がヒントに挙げるのは、江戸時代の朝鮮通信使だ。日本側は
「日本に対する朝貢」と見なし、朝鮮側は「儒教文化の未熟な
国を啓蒙する」と捉えていた。いわば戦略的な双方の勘違い。
「どこの国も、完全な味方や敵にはなりえない。互いに利用
しあうような大人の関係になるべきです」

参考引用文献:日東壮遊歌 金仁謙 高島淑朗訳注 平凡社
小倉記事:読売新聞14.6.16

江戸しぐさ「七三歩きのしぐさ・通せんぼしぐさ」
2014/06/15


「七三歩きのしぐさ・通せんぼしぐさ」

町人が往来を歩く時は必ず道の左端を歩いた。

威張りかえって道の真ん中を歩くのは、
田舎から来た武士たちだけだった。
往来は七分が公道であり、
自分が歩くのは、
端の三分という暗黙の約束があった。

なぜ道の中央を開けておくかと言うと、
緊急事態のためだ。
火事が起きて火消しが走ったり、
けが人を戸板に乗せて運んだり、
飛脚が走ったりするために道を空けておいたのである。
このしぐさを忘れて真ん中を歩くと
「とうせんぼしぐさ」と言われ、
背中に目をつけて歩けと怒鳴られた。

往来は天下のもの。
迷惑を考えずに歩くのは厚顔無恥も甚だしいというわけである。

[向嶋言問姐さん]



ちょっとみちくさ・上州人「内村鑑三」
2014/06/12

勇ましい高尚なる生涯「内村鑑三」

「何人にも遺し得る最大遺物、それは勇ましい高尚なる生涯である」。山本一太沖縄・北方相は重圧がかかる局面になると、同郷の上州人でキリスト教思想家、内村鑑三の言葉を頭の中で繰り返す。1894年の箱根での講演を本にしたのが「後世への最大遺物」だ。
内村は「これから生まれてくjる人々や社会のために何かが残せないか」と聴衆に訴えかける。お金や事業、思想を残せなくても、勇ましい高尚な人生なら誰もが残し得ると説く。2006年の自民党総裁選で安倍晋三首相を担いだときも、寝る前に講演録を読んだ。
地元の群馬県は4人の首相を輩出した。「上州無知亦無才剛毅木訥易被欺」(上州人は知恵も才能もなく、気性が荒く飾り気がないお人よしである」という内村の詩を額に入れて議員会館の事務所に飾っている。
内村は母方の遠い親戚にあたる。「最大遺物」は、後世の人に
評価されるのは勇気ある決断をつく人生だと理解している。閣僚として忙しい日々ながらも、物事は困難が大きいほどやり遂げる甲斐(かい)がある。これも内村の教えだ。
[日経新聞2014.6.8]

ちょっとみちくさ「コサック」
2014/06/05

「コサック」
今、ロシアは「コサック」に熱い。末裔を名乗るのは300万人もいる。本家本元、国のレベルでコサックの遺産を受け継いでいるウクライナでは国歌で祖先として謳われ、国章や貨幣にも描かれ、国民的英雄として敬愛されている。

旧ソ連ではレーニン・スターリンに反革命分子としてコサック440万人の70%、308万人が、戦死、処刑、流刑死で抹殺された。
近世では日露戦争で騎兵として生かされず勝機を得ず、第二次世界大戦ではドイツ軍に協力し戦後、強制連行されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF

小学校時代に唱歌で歌った哀愁そそる「ステンカ・ラージン」はドン・コサック。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

物語としては
・隊長ブーリバ ニコライ・ゴーゴリ
・大尉の娘 プーシキン
が名高い。重いが
・「コザック」トルストイも読ませる。
コサックの歴史にくわしいのは
・「コサック」阿部 重雄/著

「コサック」を理解すれば中世の東欧州、クリミアの由来も判る。関心があれば是非ご一読を。

相手を思いやる江戸しぐさ「会釈の眼差し」
2014/05/27

「会釈の眼差し」(えしゃくのまなざし)

相手を尊重する気持ちをあらわす目。

人間はすべて仏の化身という考え方があった。
仏様に挨拶するように、見ず知らず同士でも
目で挨拶するのは何の不思議はない。

さりげなく目で挨拶するというのは
顔を柔和にさせる効果がある。自然と和やかな顔になるのだ。
そうすれば殺伐とした空気は生まれない。

一人では生きていけないという基本が大切です

[向嶋言問姐さん]

相手を思いやる江戸しぐさ 「行き先は聞かぬ」
2014/05/21

「行き先は聞かぬ」
近所を歩いていて知り合いと遭遇すると、
ついつい「どちらへ?」
と聞きたくなるものだが、

こんな場合行き先を聞くのは野暮。
こんな場合は、「お出かけでございますか?」とのみ言うのが正しいしぐさ。

プライバシーを詮索してはいけない。そっとしておくのが大人の対応です。
[向嶋言問姐さん]

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