大江戸雑記


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日本 1852
2016/09/08

『日本 1852』 

 表題の本がごく最近日本語訳され刊行された。著者はチャールズ・マクファーレン
(渡辺惣樹訳)ペリー遠征計画の基礎資料であったことが分かる。 著者は
来日経験なく、当時入手できる日本の資料を網羅して分析記述。驚くほどの
「日本の履歴書」。本の紹介文と訳者のまえがきを引用してみよう。

<紹介文>
 1852年7月、ペリー出稿の4か月前にニューヨークで出版された本書は、アメリカの
日本開国計画の成否を固唾をのんで見つめていた米英知識人のニーズに応え、
大英帝国の一流歴史・地誌学者が書いた「日本の履歴書」だ。著者に鎖国日本の
訪日経験はない。スペイン、ポルトガル、オランダ人の記録をはじめとする玉石とり
まぜた文献・情報をもとに日本の歴史、地理から日本人のルーツや民族性まで
網羅解説しているのだが、天皇と将軍の権威の並立をはっきり認識するなど、
その分析力は驚くほど的確だ。死を覚悟して戦い、勤勉で社交的な日本人の資質も
高く評価。米英はすでに1853年のペリー来航以前に、日本および日本人について
恐るべき精度で把握していたのだとわかる。
 アメリカのペリー派遣の本当の目的を知り、米英の対日イメージの原点を理解
するための最重要資料の初の全訳である。

<訳者まえがき>
本書の原題『日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、
及びアメリカが準備する遠征計画について』が示すように、この書は、アメリカの
進める日本遠征計画を、強い関心を持って見つめていた英米の知識人のニーズに
応えて出版されたものです。アメリカ海軍の四分の一の戦力を割き、アメリカの
威信をかけて臨む日本開国プロジェクトは世間の耳目を集めていたにもかかわらず、
人々は日本をほとんど知りませんでした。本書の発行は1852年7月。ニューヨークの
出版社から観光されてます。ペリー提督がノーフォーク(バージニア州)を出港する
四ヶ月前のことです。アメリカ政府もここに記述される情報以上のものは持ち
合わせていませんでした。・・・
 著者のマックファーレンは日本に訪れたこともなく、日本人との直接の接触も
ありません。数世紀にわたってヨーロッパ人によって伝えられた文献と、数少ない
日本訪問経験者との会話で得た情報をもとに本書はまとめられています。ですから
私たち日本人からすれば、彼の語る日本は「他人が書いた履歴書」のようなものです。
間違いもたくさんあります。しかし、履歴書を書かれた本人が全く気づいてなかった
驚くべき観察の多いことにも気づきます。私たちが学ばなかった、あるいは忘れて
しまった日本の姿です。・・・


参考に、その頃に出された出版物(前後するが)を列挙してみよう。

日本回想記 (RANALD MACDONALD 1824-1894)
ラナルド・マクドナルド Ranald MacDonald 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89

日本滞在記 (THE COMPLETE JOURNAL OF TOWNSEND HARRIS)
タウンゼント・ハリス Townsend Harris
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9

大君の都 (THE CAPITAL OF THE TYCOON)
ラザフォード・オールコック Rutherford Alcock
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF

幕末日本探訪記 (YEDO AND PEKING)
ロバート・フォーチュン Robert Fortune
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%B3

シュリーマン旅行記 清国・日本 (CHINA AND JAPAN IN THE DAY)
ハインリッヒ・シュリーマン Heinrich Sch?liemann
(拙稿で紹介済み)

一外交官の見た明治維新 (A DIPLOMAT JAPAN)
アーネスト・サトウ Ernest Satow
(次回紹介予定)

英国外交官の見た幕末維新 (MITFORD'S JAPAN)
アルジャーノン・バートラム・ミットフォード Algernon Bertram Mitford
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%AB%E7%94%B7%E7%88%B5)

ロングフェロー日本滞在記 (TWENTY MONTHS IN JAPAN 1871-1873)
チャールズ・アップルトン・ロングフェロー Charles Appleton Longfellow
https://www.nps.gov/long/learn/historyculture/charles-longfellow.htm

ヤング・ジャパン (YOUNG JAPAN)
ジョン・レディ・ブラック John Reddie Black
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3051295_po_37-04.pdf?contentNo=1

日本その日その日 (JAPAN DAY BY DAY 1877,1878-79,1882-83)
エドワード・シルヴェスター・モース Edward Sylvester Morse
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B9

日本奥地紀行 (UNBEATEN TRACKS IN JAPAN)
イサベラ・バード Isabella L.Bird
(拙稿で紹介済み)

日本からの手紙 (LETTERS FROM JAPAN)
ラドヤード・キプリング Rudyard Kipling
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー (JINRIKISHA DAYS IN JAPAN)
エリザ・ルーアマー・シドモア Eliza Ruhamah Scidmore
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%89%E3%83%A2%E3%82%A2

日本アルプス 登山と探検 (MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS)
ウォルター・ウエストン Walter Weston
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3

心 (KOKORO)
ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%85%AB%E9%9B%B2

英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本 (IN LOTUS-LAND JAPAN)
ハーバート・ジョージ・ポンティング Herbert George Ponting
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0

明治維新見聞録 (JAPANESE MEMORIES)
エセル・ハワード Ethel Howard
http://d.hatena.ne.jp/rensan/20080618/1214647053









川井郁子 Jupiter
2016/08/27

川井郁子 Jupiter
https://www.youtube.com/watch?v=LqU0PJHI824

「夏の夜の夢」夜想曲 メンデルスゾーン
2016/08/20

ドイツロマン派を代表する作曲家。
幻想的で安らかな楽曲をお楽しみください。

http://www.digibook.net/topic/famousmusic/classic_027/?mag=20160810

シュリーマン旅行記 清国・日本(10)
2016/08/13

<江戸:最終回>

『国産の絹織物を商う店が多いのに驚かされた。男女百人を超える店員が
働き、どの店も大きさといい、品数の豊かさといい、パリのもっとも大きな
店にもひけをとらない。ただ店内のしつらえは外の国のと少し異なって
いる。店は通常町の角にあり、ベランダか、開け放たれた廊下に囲まれ、
道に面した一階の壁は障子か引戸になっている。日本の店はどこでもそう
だが、朝にこの障子または戸を外し、夕方また元に戻す。店はいつも間口
いっぱいが入口で、奥の方まで開け放たれている。・・・
 このほか、たくさんの下駄屋、傘屋、提灯屋、いろいろな教養書や孔子、
孟子の聖典を売っている数軒の本屋の前を通った。本は実に安価で、どんな
貧乏人でも買えるほどである。さらに、大きな玩具屋も多かった。玩具の
値もたいへん安かったが、仕上げは完璧、しかも仕掛けがきわめて巧妙なの
で、ニュウルンベルグやパリの玩具製造業者はとても太刀打ちできない。
たとえば玩具の小鳥が入っている鳥籠は五〜六スーで売られているが、
小鳥は機械が起こすほんのわずかの風でくるくる廻るようになついているし、
仕掛けで動く亀などは三スーで買える。日本製の玩具のうちとりわけ
素晴らしいのは独楽(こま)で、百種類以上もあり、どれをとっても
面白い。
 絵や額を並べている店にも立ち寄ってみた。日本人は絵が大好きなようで
ある。しかしそこに描かれた人物像はあまりにリアルで、優美さや繊細さに
欠ける。ところで日本人は、家の中でも路上でも、ほとんど裸で暮らす
習慣を持っていて、誰ひとりそれがデリカシ−に欠ける行為だとは考えない。
風俗画家というものは、日常目にしているものを画題にするものであり、
従って、ヨーロッパ人ならおかしいと思う人々の暮らしぶりを描いても、
それは当然なのである。
 日本の首都で外国人を目にすることは一大事件であり、私が道を通って
いるときも、人々は好奇心をあらわに、唐人!唐人!と叫んだ。公衆浴場に
さしかかると、歓声がいちだん高くなった。運の悪いことに、風呂屋の前を
徒歩で通りかかるたびに、横浜で遭ったような光景が繰り返された。
 有名な日本橋と呼ばれる橋を渡った。日本人はここを基点として国内全て
の距離を計測する。ようやくわれわれは浅草観音寺の大きな山門に着いた。
門から長く美しい道が一本、寺の入り口の扉までのびている。大通りの
両側に店が立ち並び、一種のバザール形式をとっていて、主に子供の玩具、
仏像、婦人の装身具、とりわけ金色の簪が売られている。簪の先端には
中が空洞のガラス玉がついていて、ガラス玉の中は、色のついた液と金箔
で満たされている。通りは女、子供、風来坊、買物客でごった返している。』

ーシュリーマンは警護の武士五人と寺に入り、一時間以上かけてじっくり
 見て廻ったー

『寺の中には二十余りの巨大な提灯が吊るされ、なかには長さ七メートル、
幅三.三メートルもある提灯も見られる。
 日本の宗教について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の
生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級はむしろ懐疑的で
あるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺と民衆の娯楽とが奇妙な
具合に混じり合っているのである。
 浅草観音の広い境内には、ロンドンのベイカーストリートにあるマダム・
タッソーの蝋人形館によく似た生き人形の見世物や茶店、バザール、十の
矢場、芝居小屋、独楽廻しの曲芸師の見世物小屋等々がある。かくも雑多な
娯楽が真面目な宗教心と調和するとは、私にはとても思えないのだが。
 境内の見世物を全部見て回ったが、とりわけ独楽の曲芸に感嘆した。
空中高く独楽を投げ上げ煙管の先端で受け止める。曲芸師はまるで独楽が
人間かのように語りかけながら、辿るべき道筋を指示する。ある独楽には
刀の切先を廻り、刃の上を行ったり来たりするように命令し、またある
独楽には二十度の角度にぴんと張った紐の上を登り降りすることを命じた。
三番目のには、空中に放りあげてから、一本の指で受け止め、腕にそっと
登らせ、つづいて背中を一廻りしてもう一方の腕から戻るように命じた。
すると、独楽はまるで生きもののように命令に従った。独楽に内部には、
断じてタネも仕掛けもない。曲芸師の手の力と器用さは大変なもので、
ちょっと見ると二本の指で軽く回しただけのように見えた独楽が十分間も
回りつづけた。
 もし万一このページがかの有名なアメリカ人、バーナム氏の目にふれる
ことがあれば、私は彼に、小人や、偉人ワシントンの乳母なるふれこみの
耳が遠く口がきけなくて体の麻痺した黒人の老婆を並べるような興業は
やめて、即刻日本に来て独楽曲芸師を雇い、ヨーロッパやアメリカで興業
することを推めたい。独楽回しは実に素晴らしい芸術であり、かならずや
どの文明国でもそれにふさわしい称賛の嵐を巻き起こし、バーナム氏に
毎年巨額の富をもたらすに違いない。』

ー仏像の傍らに、優雅な魅力に富んだ江戸の「おいらん」の肖像画。
 日本でもっとも大きくて有名な寺の本堂に「おいらん」の肖像画が
 飾られている事実。他国では、人々を娼婦の憐れみ容認しているが、
 その身分は卑しくも恥ずかしいものとされている。だが日本人は
 「おいらん」を尊い職業と考え、崇めさえしている。前代未聞の
 逆説のように思われ、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちつくす
 シュリーマン。
  その後、役人五人の猛反対にかかわらず、大芝居と呼ばれる大劇場
 に入る。大芝居は中国の劇場とは違って、幅23メートルの舞台に
 緞帳や舞台裏、それに質は落ちるがヨーロッパ風の書き割り。劇場内に
 椅子、ベンチ、あるいはテーブルなどはなく、平土間にも一階、二階の
 ギャラリー席にも2メートル四方の竹の茣蓙が敷かれ、観客はその上に
 座っている。
  最初の演し物はドラマティックな作品で、次は滑稽ものだったが、
 いずれもみごとに演じられていたので、日本語がわからなくてもすべて
 がよく理解できるー
  
『このあと軽喜劇がいくつか上演されたが、もし日本人が淫らなシーンに
気分を損ねるような観客であったならば、幕が降りるまでとても耐えられ
なかっただろう。
 劇場はほぼ同数の男女の客でいっぱいで、誰もがこのうえなく楽しんで
いるように見えた。男女混浴どころか、淫らな場面を、あらゆる年齢層の
女たちが楽しむような民衆の生活のなかに、どうしてあのような純粋で
敬虔な心持ちが存在し得るのか、私にはどうしてもわからない。』

ー劇場から出た時はもう、夕方の六時。七時のポートマン氏の晩餐に間に
 あわすべく速足で急ぐ。警護の武士たちは、道路いっぱいにひしめき
 あっている群衆を、「ハイ! ハイ! アボナイ!」と叫びながら
 追い散らす。こうして七時半に善福寺の公使館に着いた。この夜の
 合言葉は「誰」に対して「大」であったー

『江戸での私はまるで囚われ人のようであった。武装した百人余りの役人が
領事官の周囲を厳戒態勢で守っているにもかかわらず、私が風呂場や厩舎に
行くたびに、役人が何人かついてくるのだ。風呂場も厩舎も同じ庭の中に
あるのに、である。こういううんざりするような過剰警備に抗議をしたが
徒労に終わったし、またその理由をあれこれ憶測してみたがそれも無駄だった。
役人たちが欲得ずくでこのげんなりするまでの警備に励んでいるのではない
ことはよく承知している。だからなおのこと、その精勤ぶりに驚かされる
のだ。彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を
贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を
選ぶのである。
 それにしても、ほんの数日を江戸で過ごすだけの私が、こうも過度の献身
ぶりに辟易しているのだから、同じように警護され、外出時にはかならず
前に二人後ろに三人護衛がつく、かの高名な代理公使ポートマン氏にいたって
は、まったくお気の毒としか言いようがない。』

ー六月二十七日、団子坂にある有名な苗床と公園、王子にある名高い茶屋を
 見物し、帰路もう一度見たいと思っていた浅草観音寺を経て戻れるように、
 五人の役人たちとともに早朝出発した。
  まず大名屋敷が立ち並ぶ道を駆け抜け、雁や野鴨が群れる江戸城の堀に
 沿った美しい道を進むー

『途々、大名や大名の家族の行列にいくつか行き会った。彼らは黒い漆塗りの
乗り物(駕籠)に乗り、その前後を、大変な数の徒歩やら騎馬やらの家来が
守っている。家来たちは日本の刀を差し、漆に金箔塗りの竹製の笠をかぶって、
主君の名前と家柄を背中に大きな漢字で書いた水色の羽織を着ている。それに
濃色の細いズボンと青い靴下とサンダル、以上が彼らの服装である。行列の
家来たちは、あたりを睥睨し、人々を威圧するように進んでいた。その後に
いつも、黒い油紙に包んだ荷物を竹竿につけて担いだ十〜二十人の苦力
(中間・奴)が続いた。』

−通りには人が溢れ、「ハイ! ハイ! アボナイ!」と言う前払いの叫びも、
 もはや役に立たず、馬の歩調を緩めざるを得なかった。
 つづいて大名屋敷の立ち並ぶあたりをふたたび早足で駆け抜ける。
 なかでも加賀前田加賀守の広大な屋敷は目立っている。二時間半駆けたあと、
 団子坂に着く。
  丘の中腹に、御影石の大石段とたくさんの庭石で知られる苗木園がある。
 たくさんの盆栽を見たが、庭師による虎、らくだ、象などの形をした木も
 さることながら、蛙の恰好した松に驚嘆するー

『団子坂の丘から眺めると、江戸は森の真ん中にある二つの広大な街のよう
である。われわれは数々の美しい庭園と公園を横切って、さらに王子まで
旅をつづけた。・・・
 私は供の者と一緒に川ぞいの有名な茶屋の一つ(現在の扇屋か?)に行った。
寺に上がる前に、そこに昼食を注文しておいたからである。この茶屋は
木造二階建てで掃除が行き届いていた。磨きぬかれたか、あるいは漆塗りかの
床に、絹で縁取りされた美しい竹の敷物が敷かれ、日本のどこでもそうな
ように、家具調度の類はいっさいない。目のさめるように美しくてうら若い
十二歳から十七歳の乙女たちが給仕をしてくれる。長い着物を小奇麗にまとい、
幅広の帯をきゅっと締めているので裾の部分が広がらず、歩きづらそうである。
日本の着付けははっきりと反クリノリン(注1)の傾向を示している。木の
下駄が唯一の履物で、彼女たちはいつそれを茣蓙を敷いた床の前に脱いでから
部屋にあがる。彼女たちの髪は結髪によって結い上げられた傑作である。
 会食者が座るや否や、若くて美しい女性がうやうやしくお辞儀をしながら、
煙管と、漆塗りの小さい箱の中に銅製の「うつわ」が二個入った煙草盆を
持ってきた。「うつわ」の一つには、きざみ煙草が、もう一つには真っ赤に
おこった炭火と灰が入っていた。また別の女性がやはり深々とお辞儀を
しながら、富士山やこうのとり(鶴)を金で描いた漆塗りのお盆にのせた
緑茶の小さな茶碗をすすめた。茶には砂糖も牛乳も入っていない。
 茶屋は花園に囲まれている。盆栽に飾られた花園が川にそって広がり、
戸を開け放した立派なあずまやが散在している。・・・
私は日本風に座ることができなかったので足を投げ出して昼食をとった。
別の娘が五人の供の者にご飯、刺身、煮魚、惣菜等を給仕し、燗をした
銚子を次々に、少なくとも六本はつけた。供の者が冷酒より燗酒を好んだ
からである。最後に勘定書を持ってきたので見ると、六分(十五フラン)
もしていた。』

ー食事後、いつもの隊列を組んで浅草観音寺に向かう。道にそってほとんど
 切れ目なく農家と苗床と菜園が並んでいたが、シュリーマンが興味を
 もったのは鍛冶屋と学校(寺子屋)。 見学後、かなりの時間を浅草観音寺
 とそのまわりの娯楽場で過ごしてから、アメリカ領事館のある善福寺へ
 戻った。 合言葉は「誰」と「娘」だったー
  
ー朝七時三十分、六名の騎馬役人の護衛と出発。それまで訪れたことの
 ない界隈を通り、永代橋を渡り、江戸でもっとも美しい深川八幡宮に。
 寺の後ろの枯木の梢にこうのとりの巣が見えたが、この寺でもまた、
 「唐人!唐人!」と叫ぶ大群衆につきまとわれる。この後洲崎弁天を
 観て、すぐ近くの茶屋で、日本人が賞味しているのと同じ煎茶を飲み、
 そこから港と松の豊かな庭の素晴らしい眺めを楽しむ。後、両国橋を
 渡って領事館に戻るー

『昼食のあと、赤羽の寺(注2)の公園を訪ねた。この寺には墓地もあり、
1861年1月15日に暗殺されたアメリカ公使館付通訳ヘンリー・ヒュースケン
の墓があることで知られている。ヒュースケンは江戸に埋葬された、ただ
一人のキリスト教徒であるばかりでなく、日本語を正確に読み書きすることが
できるようになった唯一の外国人である。そしてそれがその死の原因となった。
日本人は、彼があまりにも日本の生活になじんだので、自分たちの統治機構の
秘密を洩らすのではないかと恐れたのである。ヘンリー・ヒュースケンが
埋葬され以来、この墓地は穢されたとみなされ、今ではすっかり打ち捨て
られている。』

ー士農工商やキリシタンにシュリーマンは触れているが、一般論でとくに
 目新しくもなく、江戸の人口は過大評価ー

『日本には戸籍がないし(注3)、そのうえ政府も国勢調査をしないので、
江戸の人口については、およその数をあげることさえむずかしく、ほぼ
二百五十万〜三百万と推定されるのみである。
 ペリー司令官の秘書として、1854年(1853年の誤り)に日本を訪れ、
1859年以来、江戸に駐在している総領事のポートマン氏は、この首都の
人口を、二百五十万は超えないだろうと考えている。・・・
 現在江戸に住む唯一の外国人は公使館員、ポートマン氏、そして私である。
しかし、まず外国との耕栄に開かれた三つの港の人口を見ても、アメリカ人
以外の外国人はごく少ない。その数は、
横浜に  約200人
長崎に  約100人
函館に    15人    総数 約315人
である。
 外国人たちは、横浜の海辺の限られた居留地に住んでいる。彼らの家は
ガラス窓のある二階建てで、一階はベランダが、二階は回廊がめぐらされて
いる。どの家も、花や木が植えられた美しい庭の真ん中に建っている。』

注1 「クリノリン」は鯨骨等で作られた夫人のスカートを張らせるための
   ペチコート。腰枠。
注2 「赤羽の寺」は現在の麻布・四ノ橋近くの光林寺。幕末、浪士等の
   殺戮による在日外国人の死体の引き取りを躊躇した寺が多いなか、
   光林寺住職は道心の発露から、ヒュースケンや義僕伝吉(イギリス
   公使館通訳)の屍体を引き取り手厚く葬ったという。
注3 じつは日本の戸籍は古く、六世紀にまでさかのぼることができる。
   「日本書記」欽明条には、渡来人を中心に戸籍が編まれたことが
   記されている。さらに天智九年(670年)には全国的・全階層の
   戸籍が作成された(甲午年籍)。
    近代日本の戸籍法は1871年(明治4年)に制定され、翌年発布。
   現行の戸籍法は1947年(昭和22年)制定による。


ー巻末のシュリーマンの日本文明論ー

<日本文明論>
『もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化
 されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において
 蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているから
 である。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。
 シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置
 されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書き
 ができる。』

ー男のロマンを追い求める情熱、不屈の意志力、執拗なまでの探求心、
  そしてあふれんばかりの才気・・トロイア遺跡発掘に成功したのは
  1871年、本書の旅から六年後のことであるー


@独楽廻し A浅草寺 B光林寺

唐津城の花火大会
2016/08/05

唐津城の花火大会
http://www.digibook.net/d/9d55e55fa04bbecc256bf0e4089d71f5/?mag=20160804

あさがお市
2016/07/20

「旬撮り・あさがお市」 作者:rana
 http://www.digibook.net/d/f4d5899b808d948825ba99d4a8fc4007/?mag=20160720

芳名覚えのしぐさ
2016/07/18

相手を思いやる江戸しぐさ 

「芳名覚えのしぐさ」です!

集まりで人を覚えるときの気づかい!

江戸の町では、何かと寄り合いが多くあった。
それらは「講」と呼ばれ、宗教的な集まり、娯楽的な集まり、経済的な集まりなど、内容は様々だった。

このような寄り合いに初めて出席するとき、自らは名乗るものの、他の人の名前を直接聞くことははばかられた。
他人の名前は、そのひとが呼ばれたときに覚えるのだ。まずは自分の両隣の名前から覚えるのだ。次に正面と、隣の隣と覚えていく。

このしぐさを「芳名しぐさ」という。

『向嶋言問姐さん』

シュリーマン旅行記 清国・日本(9)
2016/07/09

シュリーマン旅行記 清国・日本(9)

<江戸(2)>

 ー愛宕山に着き、丘の上から江戸を見る。町の三分の一が見えるか
見えないかだが素晴らしい景観。正面に江戸城。城の右手は歴代大君の
霊廟のある増上寺。その右側の多くの大名屋敷は広大だが低層建築。
各大名屋敷には、針葉樹やいろんな木を植えこんだ大庭園が見える。
さらに右は、広い港と六つの砲台にたくさんの小舟ー

『大きな日本の蒸気船が七隻、投錨地に停泊していた。これらの船は
幕府が千五百万フラン以上もかけて建造したものだが、打ち捨てられた
まま、何ら益するところなく朽ち果てる運命にあるようだ。・・・
われわれは愛宕山を降り、再び馬に乗って大君の城のまわりを一巡した。
世界の他の地域と好対照をなしていることは何一つかきもらすまいと
思っている私としては、次のことを言わなくてはなるまい。すなわち
日本の猫の尻尾は一インチあるかないかなのである。また犬は、
ペテルスブルクやコンスタンティノーブル、カイロ、カルカッタ、デリー、
北京では大変粗暴で、われわれの乗っている馬やラクダに吠えたて、
追いかけ廻してきたものだが、日本の犬はとてもおとなしくて、吠えも
せず道の真ん中に寝そべっている。われわれが近づいても、相変わらず
そのままでいるので、犬を踏み殺さないよういつもよけて通らねばなら
ない。』

 ー夕方公使館に戻る。夜間自分たちを守ってくれる詰所の提灯に感心する
シュリーマン。これらの提灯は安くて、そのうえヨーロッパのランターン
より長持ちし、使わないときには折り畳んでしまえる。
 次の日、六月二十六日早朝、いつもの警護の武士五名と他の公使館を
訪問するために馬で出発。一ヶ月ぶりの晴れで熱帯を思わせる太陽が
ぎらぎらと照りつける。
 まずアメリカ公使館付の通訳ヒュースケンが殺されたフランス公使館
のある済海寺。さらに長応寺にあるオランダ公使館。そして東禅寺にある
イギリス公使館に向かうー

「この公使館は血にまみれた惨劇の舞台にもなったのだから、もっと
詳細に記述しなければならない。
 花崗岩の大門を入ると、長さおよそ五百メートル、横六十六メートルほどの
広大な境内が広がり、松の大木が植えられていた。門からは花崗岩の敷石を
並べた広い道が二層建ての豪壮な楼門を通って本堂までまっすぐにつづいて
いる。本堂の左手は大勢のボンズたちが寝起きする大きな平屋の建物で、
公使館は右手にある。やはり平屋で二十ないし二十五部屋にいくつかの
廊下が張り巡らされている。間仕切り壁も外壁も紙を貼った引戸(襖、障子)
でできているので、夜は建物を知りつくした人でもなければ、とても
抜け出せないだろう。
 1862年(1861年の誤り)七月の襲撃のさい、まさにこの造りのおかげで、
オールコック卿は命拾いしたのである。
 ほうぼうの障子紙に、この襲撃のときできた大きな血痕がまた残っている。
家屋のもう一方の側には、池を隔てて、うっそうとした樹木が生い茂った
広大な庭園があり、かってその池には、小さな木の橋が架かっていた。
同様に1863年(62年の誤り)の夜、合言葉を使って庭の側から忍び込んだ
刺客たちは、イギリスの二人の伍長を殺したが、協力な援軍が到着し、
イギリス臨時公使オニール大佐を暗殺する目的を果たすことができないまま
逃亡した。現在橋はこわされに二重三重の防禦柵と、多くの番小屋で取り
囲まれている。けれどもイギリス人たちは物理的にも比喩的にも火山である
江戸の地を恐れ、ずいぶん前から公使館を横浜に移しているので、江戸の
建物は打ち捨てられている。』

 −ここから随員とともにアメリカ公使館に戻り昼食をとり、それから別の
五人の役人といっしょに、有名な浅草観音を見物に出かけたー

『江戸を流れる大川(隅田川の下流)は河口こそ広いが大河ではない。
この河が街を不均等に二分している。一方が本所、もう一方がいわゆる江戸
である。さらにこの江戸が、町、城(大君の居城)と外城(城の周囲)の
三部分に分けられる。浅草観音寺は、ほぼ町のはずれにある。
 われわれは大名屋敷が打ち続く似たような界隈を速足で駆け抜け、大君の
墓所にそってかなり長い距離を進んだ。同業地域に入ってからは、じっくり
見ることができるよう馬の速度を落とした。
 どこを見渡しても、肉屋や牛乳屋も、バターを売る店も、家具屋もない。
日本人は肉も牛乳もバターも食べず、また家具の何たるかも、まったく
知らないからである。
一方、金で模様を施した素晴らしい、まるでガラスのように光り輝く漆器や
蒔絵の盆や壺等を商っている店はずいぶんたくさん目にした。模様の美しさ
といい、精緻な作風といい、セーブル焼き(フランスの代表的な陶器)に
勝るとも劣らぬ陶器を売る店もあった。たとえば、まるで卵の殻のように
薄いにもかかわらず、きわめて丈夫な陶器の茶碗がある。竹や籐を格子状に
めぐらした茶碗もある。格子はとても強く、しかもきわめて精巧にできて
いるので、顕微鏡でも使ってみないと陶器なのか籐なのか見分けがつかない
くらいである。ただしわれわれヨーロッパ人にとっては、部屋の装飾品に
しかならないだろう。この茶碗は、われわれに小さすぎるし、それに受皿も
把手も付いていないからである。日本の家庭で使われる食器の種類はきわめて
限られており、われわれからすれば一風変わった形の他の陶器が、いつ、
何に使われるのか、わからない。・・・
 日本刀の名声は東洋全体に鳴り響いている。その堅牢さと切れ味は凄い
もので、太さ二センチの鉄の棒も一打ちに断ち切ることができると、誰もが
請け負ったものだ。ここでは大小二本の刀を八十分(二百フラン)で売って
いる。私は刀一本に百分ではどうかともちかけた。ただし支払いの前に、
主人自ら私の目の前で釘を断ち切って見せてほしいと。しかし主人が
断ったので、買うのをやめた。思うに、私の耳には日本刀の品質が誇大に
伝えられたものらしい。私が切らせたいと思った釘は直径一インチの
六分の一(四ミリ)もなかったのだから。
 日本ではいまだに弓がよく使われていて、長さ二〜三メートルの弓を
方々の店で見かけた。矢がいっぱい入っている漆塗りの箙(えびら)付き
で、一張五十八分(百四十五フラン)である。
 木彫りに関しては正真正銘の傑作を並べている店が実に多い。日本人は
とりわけ鳥の木彫に秀でている。しかし石の彫刻は不得手であり、たまに
見かける軟石を使った石彫もつまらないものである。大理石は日本では
まったく知られていないようだ。』


<注> ー〇〇〇ーは説明拙文、『』は抜粋引用文、・・・は「中略」

「呑気しぐさ」
2016/07/03

相手を思いやる江戸しぐさ 

「呑気しぐさ」(のんきしぐさ)

のんびり気長に育てる心構え!

スピードが重要視され、のんびり待つということがなくなってきた現代。
新入社員にしても、早く一人前になることを望む傾向にある。

江戸の場合は、むしろのんびり構え、気が熟すのを待った。
簡単な失敗をしても頭ごなしに怒るのではなく、
気長に成長を待つ懐の大きさがあった。これを「呑気しぐさ」といった。

一度の失敗を理由も聞かずに頭ごなしに怒ると、失敗を恐れ余計な失敗を生みだすものだ。少しずつでも仕事をしっかりと覚えることを求めた。
また相手の不始末から起こったことでも、相手の気持ちを斟酌して鷹揚に構えた。

「向嶋言問姐さん」

参考:
http://srkblog.info/archives/765332.html

シュリーマン旅行記 清国・日本(8)
2016/06/23

シュリーマン旅行記 清国・日本(8)

<江戸>

『素晴らしい評判を山ほど聞いていたので、私は江戸へ行きたくてうずうず
していた。1858年に調印された通商条約によれば、すでに1862年には、外国
との交易がこの首都で始まっているはずだった。しかしヨーロッパ諸国は
大君(タイクン)の懇願を受け入れて、江戸の開港を無期限に延ばすことに
同意してきた。だからいまでも外国列強の公使たち及びその随行員のほかは
江戸を訪問することができない。しかも残念なことに、諸公使たちは彼ら
自身、またその随員たちの生命が危うくなるような襲撃に幾度も遭ったため、
ずいぶん前から江戸を立ち退いてしまっている。だからアメリカ合衆国全権
公使プリュイン氏を除いては、江戸に残っている人はいない。プリュイン氏
自身も、臨時の代理公使としてポートマン氏を残して数ヶ月江戸を離れて
いる。』

ー江戸見物にはポートマン氏の招待状がなければならなかったが、横浜の
グラバー商会のとりなしで総領事のフィッシャー氏から届けられ、六月
二十四日にポートマン氏を訪問することになる。また翌二十五日から江戸を
見たい希望にも応えくれ、総領事は翌朝八時から付き添いとして五人の役人
(騎馬警護の士官)を派遣するようにという命令とともに、江戸への旅行
許可証を、横浜の日本警察庁(横浜奉行所)に送ってもらう。
 シュリーマンが日本到着以来、雨がほとんど絶えまなく降りつづいていたが、
六月二十五日は空の閘門を全開にしたかと思うほどひどかったー

『どしゃ降りのなか、私に付き添う羽目になった五人の役人とともに、
私は朝八時四十五分に出発した。この護衛の役人はわずかばかりの心付けを
受け取ることも許されない。彼らは、どんな辛い運命からも、その苦しみの
なかばを取り除いてくれるある哲学、毅然とした諦観をもって、人生の
廻り合わせにただしたがっている。』

ー列をつくって街道を全速力で進む。二人の上級武士がシュリーマンの先に
たち、あとの三人は後方の警備。首から足首まで、神々、鳥類、象、龍、
あるいは風景などを、鮮やかな色で巧みに入れ墨した全裸に近い別当(馬丁)
が六人、馬と速さを競うようにあとを駆けて来る。
 十五分ほで東海道の神奈川宿に着く。この道路は長崎から江戸へ、そして
函館まで六百マイル(960キロ)以上にわたって国中を横断しているー

『大街道ぞいにはまた、たくさんの茶屋や警吏の詰所(番所)がある。
大街道は、竹竿に荷物をつけた苦力(クーリ・人足)や蹄鉄なしで藁の
サンダルを履かされた、重荷を運ぶ馬で混雑している。実際、役人の馬以外、
蹄鉄をつけた馬は見たことがない。しかも役人たちが馬に蹄鉄をつけ始めた
のも二年前からにすぎない。
 他の馬はすべて藁のサンダルを履いている。われわれはそのほか街道を
行き交うきわめて多くの兵隊(足軽)たちに出会ったが、彼らは弓と矢筒、
または刀、銃で武装していた。銃剣はすねに鞘におさめられ、腰に帯びている。
われわれは苦力(駕籠かき人足)四人が担いだ乗り物や二人の苦力の担いだ
駕籠をたくさん追い越した。街道の番所はどこも六人から八人の警吏が正座
していた。彼らは私に同行する役人を見付けるや、路上へ飛び出して、平伏
して迎えた。』

ー途中、茶屋に2回寄り茶を飲み食事をとる。例の如く食事の内容、値段、
サービスにまできめ細やかに観察するシュリーマン。江戸湾を見ながら、
昼ごろ江戸の港に着いたー

『やっと午後一時ごろ、江戸の町に入り、よく観察できるよう馬を並足にした。
まず大商店が立ち並ぶ界隈を通った。そこではどの家も一階が道に向かって
開け放れた店舗になっていて、奥の方は矮小な木で飾られた小さな花壇が
見えた。
 日本の家にはかならず庭があり、庭には水槽や、あるいは小さな庭石で
ふちどられ、扇型の尾をした金魚でいっぱいの、模型のような池がある。
 江戸の家々は木造二階建てで、日本のどこでもそうであるように、窓の
代わりにサッシ(障子)の引き戸がついている。サッシ(障子)にはとても
薄いが耐久性のある白い紙が張られているから、長い間雨に曝されても破れ
ない。時折火災にも耐える練土の家(土蔵造り)を目にする。平均して木造
家屋二十五軒に対して練土の家一軒の割合である。不幸にも日本では地震が
多いので、石の家を建てることはできない。江戸のすべての道は、パリの
大通りのように砂利で舗装されている。もっとも狭い道でも幅七メートルは
ある。商業地域の平均的な道幅は十四メートルくらいである。一方大名
すなわち領主たちの屋敷町の道幅は二十から四十メートルもある。』

ー午後二時ごろアメリカ合衆国公使館に着く。善福寺という大きな寺で、
その名は永遠の浄福を意味する。代理公使のポートマン氏の歓待を受けるー

『ポートマン氏は私をまず二つの寺と二つの隣り合った建物の近く、彼の
いわゆる「要塞」に案内した。その要塞とは二つの竹の垣根とたくさんの
番小屋、そして哨舎からなっている。ここで昼間は二百人、夜間は三百人
以上の役人が太刀と弓、鉄砲と短刀で武装して警備にあたっている。
味方同士を確かめる合言葉が夜ごと決められ、受け答えできずに通りすぎ
ようとする者はたちどころに切られることになっている。』

ーどしゃ降りの雨が続く。しかし江戸を見物した願望は大きく、そんなことは
言っていられないと、入浴してさっぱりしたあと、別の警護の役人五名と
ともに、ふたたび馬で出発したー

『どの大名屋敷も三百〜六百メートル四方の広大な庭園の中央にある。
庭を囲むように木造二階建ての大きな建物があり、そこには大名側近の
侍とその家族が住んでいる。
 この広大な建物も、大名の供廻りの者すべてを住まわせるのには充分で
ない。従って庭の中にはかならず別にたくさんの住宅が建てられている。
 大名たちは法律によって一年のうち六か月間は江戸屋敷に住まねば
ならないし、地元に戻っている六ヶ月は家族を人質として江戸に残して
おくよう、定められている(参勤交代の制)。彼らが多数の家臣を連れて
江戸を出発し、また戻って来る行列の規模は、大名の禄高に比例し、
もっとも富裕な物の供廻りは一万五千人を超える。大名屋敷は練土で
塗られたものもあるが、大半は簡素な木造で、漆喰で白くしてあるだけ
である。しかしどの屋敷も多かれ少なかれ幅広い堀に取り囲まれ、その
うちのいくつかは、さらに高い土塀に囲まれている。日本には四百家以上の
大名がおり、みなそれぞれに一つないしいくつかの屋敷を江戸に構えて
いるので、総合すると大名屋敷だけで江戸の三分の一を占める。江戸で
公布された公式目録によれば、大名のうち二十は、二十六万三千七百石
以上の年収がある。一石が十七・三フランとすれば四百五十六万二千十
フランとなる。さらに年収六十万石、すなわち一千三十八万フランを
越えるものは四家ある。
 列記すれば、大名加賀前田加賀守は年間石高百二十万二千七百石、
すなわち一石十七・三フランとして換算すれば二千八十万六千七百十
フランである。
 大名尾張徳川尾張殿は六十二万九千五百石だから、同様にして
千八十九万三百五十フランとなり、大名陸奥仙台松平陸奥守は六十二万
六千石で千八十二万九千八百フランである。

 大君が勝手気ままな行動がとれない理由としてまず、彼が昔からの
しきたりや法律を遵守していることがあげられる。しかしそれ以上に、
表向きの服従にもかかわらず、実際には対立関係にある大名、すなわち
領主たちの存在が大きい。
 以上のようにオールコック卿は言うが、この指摘は正しい。国元では
大部分の土地を領有し、そこに絶対的権力をふるっている大名たちは、
二つの権力の臣下として国法を遵守しながらも、実際には、大君と帝の
権威に対抗している。好機到来と見るや、自己の利益と情熱に従って、
両者の権威を縮小しょうと図るのである。
 これは騎士制度を欠いた封建体制であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治
である。ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にも
かかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、
そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる。』
         ー続くー

<注> ー〇〇〇ーは説明拙文、『』は抜粋引用文、・・・は「中略」


@商家 A武家屋敷 B江戸図

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