大江戸雑記


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治安が良かった江戸日本
2016/03/23

治安が良かった江戸日本
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20120913/1347540916

シュリーマン旅行記 清国・日本(4)
2016/03/11

<上海>

ーシナの二輪馬車にほとほとうんざりしていたので、天津まで下るまではしけを
 借りたが、たった三ピアストル(18フラン)。はしけといっても四十トンも
 あり、押したり曳いたりするのに水夫を八人も必要としたが、乗り心地は大雨
 のせいで馬車よりもっと苦しむ羽目になり、天津まで三日もかかってしまった。
 天津からは香港のデント商会の素晴らしい大きな蒸気船に乗り、上海まで
 二日半で着く。運賃は食事と葡萄酒がつき八十両(720フラン)。
  汽船の運賃が極東でこんなに高価なのは、あらゆる刷新に対して、とりわけ
 蒸気機関に対して嫌悪感をいだいているシナ人たちは、相変わらず手で石炭を
 堀り続けているため、手作業人夫の手間賃が安いにもかかわらず、はるか地球の
 裏側からから来るイギリス産に勝てないのだー

『清国政府は、四億の人民を教化するあらゆる事業を妨げることで、よりよい
 統治ができると考えているから、蒸気機関を導入すれば労働者階級の生活手段を
 奪うことになると説明しては、改革に対する人々の憎悪を助長している。しかし、
 極端な困窮にあえいでいるから、早晩、自国の豊かな炭鉱に目を開き、蒸気機関を
 使ってそれらを採掘せざるを得なくなるであろう。いずれにしても、北京の谷間に
 蒸気機関車の汽笛が響くまでには幾世代もかかるだろう。』

ー「汽笛一斉新橋を」ではないが明治初期に人力車夫が数千名集まった抗議集会が
 新橋駅前であったことが想起される。
  シュリーマンは中国に蒸気機関車の走る日を絶望視しているが、実際には
 1865年にイギリス人が北京で短距離の鉄道を作ったが、直ちに取り壊された記録が
 残っている。さらに1876年、再びイギリス人により上海ー江湾間に鉄道の一部が
 開通したが、これも翌年十月には撤去される。本格的に開通するのは1888年10月、
 中国人の手によるー

 
ー上海港は1864年に開かれた、広大な清帝国とヨーロッパを結ぶ最も重要で清最大の
 輸出港である。上海の町の気候はひどく健康に悪く、町は沼に囲まれていて、
 沼の瘴気が空気を腐らせ、コレラ、マラリア、赤痢、天然痘をひきおこす。
  シュリーマンはホテルを持つミッチェル氏と上海大劇場にむかう。芝居は
 夜十一時半に始まり、明け方の五時半か六時まで続く。阿片吸飲者用の椅子席まで
 あり、320人収容でき、観客はぼちぼちやってくるから、ホールがいっぱいになるのは
 ようやく午前一時ごろー

『入場料には飲食費が付いていて、われわれが席につくや給仕がやってきて・・
 ビスケット、氷砂糖、西瓜の種、そしてさまざまな菓子が、われわれの前に次々と
 並べられた。給仕が二人。十五分ごとに、汗をかいた顔や手を拭く熱いおしぼりを
 観客全員に配り、数分後にそれらを回収してまわる。給仕たちはまた十五分ごとに、
 やかんを持っては、客の間を巡り、空になった湯飲みに湯をついてまわる。
 ・・初めのうち、女性客は一人もいなかったが、深夜の十二時から午前一時ごろに
 なると、十二歳から十六歳くらいの若い娘が30人ほどやってきた。
  娘たちはよろよろしていて、好き添いのアマ(御手伝い)に支えられなければ
 どうにもならない風だった。そんなにもほどくよろめくのは、明らかに、彼女たちの
 足が驚嘆すべき小ささであることを誇示するためであり、娘たちはその魅力を
 ひけらかすためだけにやってきたように思える。どの娘も贅沢な服装をしていた・・
 ありとあらゆる装飾品で飾り立てていた・・演題は・・ただちに上演できる演目を
 三百も書かれていた。観客は一ピアストル余計に払えば、・・演目の中から好きな
 ものを選んで、象牙版に書かれたプログラムの一つに替えることができることに
 なっている。
  実際、やがて長い辮髪の中国人商人が八人、八ピアストル払ってプログラムのうち
 八つの芝居を、彼らの選んだ六つの喜劇を二つの悲劇に替えさせた。喜劇は韻を
 ふんだ英雄時代の滑稽物で、見事に演じられた。
  日本人を除けば、シナ人は滑稽物を演ずる技術にもっとも長けた民族であると、
 私は思う・・真に賞賛すべきは、彼らの素晴らしい記憶力だろう。そのおかげで
 何百とある場面を新たに準備することなく、またヨーロッパの俳優たちのように
 舞台監督やプロンプターの助けもなしに演じることができるのである。舞台監督や
 プロムターなど、シナには存在しない。
  衣装ばかりか演出もまた、北京のそれよりもずっと私の気に入った。北京では
 劇場がひどく不潔で、それが興業の価値を少しばかり傷つけていた。・・彼らは
 音楽とメロディーにおいて自分たちに欠けているものを、不協和音と騒音で補おう
 とするのであるが、それはすなわちヨーロッパの同業者の多くがやっていることと
 同じである』

ーシュリーマンは上海でよく見かけるジャンクにも興味を示すー

『シナの「ジャンク」の帆は竹で編んだものであり、長さ24メートル、ときには
 25メートルのものもある。・・六門から十四門の大砲で武装していて、ときには
 二十門もついているものも見かける。たくさんの水夫が乗り込み、すきあらば
 海賊行為をおこなおうと待ちかまえている。ジャンクはたいていスタンポ(悪臭弾)
 と呼ばれる恐ろしい武器を備えている。・・爆発したとたん、すぐそばにいた人を
 窒息させてしまう。海賊たちは船を襲撃するさい、まずこれらの壺を一つ、船室の
 窓から投げ込んで、中の人を一挙に片付ける。投げ込めなかったときは、戦闘の
 まえにジャンクのマストの上から壺を、めざす船の甲板になげつける。
  私が香港を発つ前夜、こういうふうにして、ある海賊ジャンクが、町から12キロ
 離れた港の出口で、デンマークの二本マストの小型帆船を乗っ取った。海賊たちは
 船長を殺し、一等航海士に瀕死の重傷を負わせ、乗組員を縛り上げて、自分たちの
 ジャンクに約1500ピコル(約百トン)の米を運びこんだ。それからデンマーク船底に
 穴をあけ、手足を縛った乗組員たちを船倉にほり込んで船もろとも海中に沈めようと
 した。が、乗組員たちはすぐに縄をほどき、船の穴をふさいで、無事香港の港まで
 たどりつくことができた。』

ー海賊が跋扈しているが、ヨーロッパ人の首領が多いことをシュリーマンは指摘して
 いる。 いよいよ江戸へー


ジャンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AF_(%E8%88%B9) 
http://www.y-history.net/appendix/wh07-031.html

<注>ー〇〇〇ーは説明拙文、『』は抜粋引用文、・・・は「中略」



@纏足 A苦力 Bジャンク

日本人の長所と短所
2016/02/28

戦国時代の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが見た
日本人の長所と短所

http://matome.naver.jp/odai/2141191595975849501?&page=1

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E

シュリーマン旅行記 清国・日本(3)
2016/02/20

<万里の長城>B

ー朝食後、城壁に登るため、案内人を連れてでかける。相変わらず野次馬が城壁の
 最初の険しい坂までついてきたが、疲れを避けて皆、帰ってしまうー

『最初の難所は、城壁に沿って深い谷になっていた。しかも城壁はほとんど崩れ落ち、
 道幅は34cmしかなかった。狭すぎて、両手をつかなければ姿勢が保てないのだ。
 アトションはすっかり勇気がくじけてしまい、私を一人残して立ち去った。
  私は一人歩き続けた。・・・辛抱強く登り続け、ついに念願の岩山にたどりついた。
 それでもまだ二キロ以上にわたって、別の岩が横切っていた。・・・私は勇気を
 ふるってこの難関に挑みはじめた。・・・しかしとにかく私は頂上にへたどりつき、
 銃眼を備えた沌台の塔の上に登った。ちょうど正午だった。五時間半も奮闘した
 わけだ。しかし眼前に開かれた眺望は、長旅と長城登攀の苦しみをたっぷり償って
 余りあるものだった。・・・望遠鏡で北方を見やると、山々のかなたに満州平野が
 望まれる。足下には深さ900メートルの峡谷が見える。北方から流れ來る一本の川が、
 田を潤し、様々な曲線を描き、古北口の美しい町を二つに分かちながら、この峡谷を
 縦に貫いている。・・・眼下の南方に広がるたくさんの丘の美しさといったら、比較
 するものがないくらいである。丘をはるか越えたあたりに北京平原が望まれる。
 東側の峡谷の彼方、のこぎり状の巨大な山脈によってふちどられた幾千もの岩山の
 眺めは、まさに崇高というほかない。』

 ー長城の巨大さ、眺めは圧巻。眼前に展開された光景の壮麗さに圧倒されるシュリー
 マンー

『私は茫然自失し、言葉もなくただ感嘆と熱狂に身をゆだねた。かくも多くの驚異を
  見ることに慣れることはできなかった。ごく幼いころから話に聞いては好奇心を
  そそられていたシナのこの万里の長城、これが今、想像の百倍以上の威容をもって
  もって目の前に迫っていた。巨大な望楼を備え、つねにいちばん高い山の尾根を
  求めてのびていくこの広大な棚を見れば見るほど、私にはそれが、ノアの洪水以前の
  巨人族がつくりあげたもののように見えてならなかった。もちろん歴史によって、
  長城が紀元前220年ころに築かれたことは知っているが、それでも死すべき運命の
  普通の人間の手が、これをどうやって築いたのか、谷間でしか作れなかったはずの
  花崗岩の塊や無数の煉瓦等の資材をとうやってこの大きな切り立った巨大な岩山の
  上まで運び、積み上げることができたかは、わからない。』

 ー煉瓦やセメントを作り花崗岩を切り出し、高処へ運んだ数百万の人夫に思いを馳せ、
  またこの長城にある二万の塔を守備する数多くの兵を考えれば、長城はかって人間の
  手が築き上げたもっとも偉大な創造物だということに異論の余地はない。がいまや
  この大建築物は、過去の栄華の墓石といったほうがいいかもしれないとシュリーマン
  は考えるー

 『長城は、それが駆け抜けていく深い谷の底から、また、それが横切っていく雲の
  只中から、シナ帝国を現在の堕落と衰微にまで貶めた政治腐敗と士気喪失に対して
  沈黙のうちに抗議をしているのだ。
   私は、できれば日暮れまで塔に残っていたかった。この素晴らしい光景はいくら
  見ても見飽きることがなかった。しかし灼熱の太陽に、喉の渇きがいかんとも
  しがたく、ついに、この人を寄せつけない地をあとにした』

 ー望遠鏡をベルトに差し、長さ67cmほどの大きな煉瓦を二つ抱えて町に入るや
  いなや、また一群の老若男女に囲まれたー

 『彼らはわたしの煉瓦を指差しながら、重さ50リーブル(25キロ)もある、一銭にも
  ならない長城の石をわざわざ運んでくるなんてどうかしていると、わいわい
  囃したてた。
   わたしがシュイ(水)と言って、死にそうに喉が渇いていることを身振りで
  示した。人々は急いで冷たい水を籠に入れて持ってきてくれ、しかも何の報酬も
  求めなかった。わたしはこれまで清国で、こんなにも寛大な例に出会ったことが
  なかった。この町の人々は、少々好奇心の度が過ぎているにせよ、親切心においては
  シナ人のなかで際立っていると言わざるをえないだろう。彼ら山岳人たちは、
  ゆったりとゆとりのある生活をしているようだ。珍しいことに、町中に一人の
  乞食もいない。シナでもっとも清潔な町という評判どおりのようだ。住人たちの
  衣類も、ありふれた布でできてはいるが、清潔にしているので、ある種の優雅さが
  備わっている。
   清国の他の地域と同様に、女性の魅力は纏足した小さな足にのみ向けられている
  ようだが、山岳民族はまだ風俗の紊乱に犯されていない。男、女、子供、みな強く、
  逞しく、桃色の頬を見れば、健康によい気候に恵まれ、阿片とは無縁なことが
  よくわかる。清国南部では阿片があまねく愛好されているから、無表情で蒼白な
  顔しか見られない。阿片愛飲者は北に行くにつれて減少する。天津、北京では
  ごくわずかな人々にしか、この麻薬の災禍を認められなかった。』

  ーその日、やっとシナの宿屋にしては良い宿で休息をとることができたー


万里の長城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%87%8C%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E


<注>ー〇〇〇ーは説明拙文、『』は抜粋引用文、・・・は「中略」

100年ぐらい前の万里の長城
     

春の息吹き
2016/02/17

梅まつり写真集

http://www.digibook.net/topic/special/ume2016/?mag=20160216

頭越しのしぐさ
2016/02/09

「頭越しのしぐさ」(あたまごしのしぐさ)

紹介者を立てる江戸の気配り!

初対面の人が信用できるのかできないのか、その判断は時間がかかる。
無駄を省く方法のひとつが、紹介者を立てること。

長く江戸で商売をしていれば「のれん」という信用もあったが、
新しく店を開いた商人は、紹介が必要になる。
目的の人と取引をする場合は、必ず紹介者に了解を求めた。

紹介者を無視した取引をした場合を「頭越しのしぐさ」と呼び、タブーとした。

『向嶋言問姐さん』



なぜか「妃殿下」

シュリーマン旅行記 清国・日本(2)
2016/01/29

<万里の長城>A

ーさらにー

『シナ人たちは生来賭事が好きなので、どの通りにも賭博場があり、さらに戸外でも
さまざまな小胴元が賭場を張っていて、そのどれにも男たちが群がっている。昼間は
小金さえも出し渋るおとなしい小商人が、夜になると賭博場で数千ピアストルをすって、
しかもまったく動じない。・・・シナ人たちは偏執教的なまでに賭事が好きであり、
貧しい労働者でも、ただ同然で食事にありつけるかもしれないというはかない望みに
賭けて、自分の食い扶持の二倍ないし四倍の金をすってしまう危険をものともしない。
けれどもシナでの賭事は、現世の利益を得るだけのものではない。それはまた、
神々の恵みを授かり、その意向をしるためのものでもある。』

ーたくさんの行商人、またお寺の仏像前で、高い声で祈ってはぬかずく男女をいたる
 ところで見かける。ドイツ人の学者であり宣教師であったヨハン・アダム・シャールの
 作った天文台をも訪ねる。次に、漢人街にある劇場に行こうと皇帝の宮殿(紫禁城)
 のそばを通るー

『長さ十二キロメートル、高さ八メートルの壁に囲まれている。宮殿付きの第一位階の
高官以外、何人も、この中へ入ることはできない。だが、この館は、宮殿というより
むしろ、君主の牢獄と呼んだほうがふさわしいものなのである。なぜなら、皇帝は
国の習わしに縛られて、けっして外出できないからである。この宮殿の中、ハレムの
逸楽と高官たちの追従、諂いのただなかで、皇帝は、全ヨーロッパの1.5倍の民を統治
するための経験と知識を得なければならない。もし1860年に明朝の宮殿を破壊した
フランス人とイギリス人が、同時に北京の巨大な皇帝の牢獄をも打ち壊していたら、
それは人類への多大な貢献になったろうし、また清国の文明開化への偉大な一助と
なったろう。そう私は心から思うものである。しかし神の摂理は、1860年の英仏同盟軍が
なしえなかったことを、まもなく完遂しょうとしているようだ。離宮はもう何世紀も
修理されていないように見えるし、城壁はいまにも崩れ落ちそうである。・・・途方も
ない費用をかけて建設したこの壮大な建築物を、いまや頽廃し堕落した民族が崩壊する
にまかせているのを目の当たりにするのは、じつに悲しく、心痛むことだ。もし寺を
きちんと保ち、美しい姿を後世に残そうと思ったなら、それぞれの寺に常駐の職人を
二人もおけば充分だったろうに。清国の君主たち、また民の愚かさ加減、意気阻喪ぶりは、
自分たちの神々の聖堂、栄えある祖先の建てた偉大な建造物を崩れるがままに放置した
さまに、遺憾なく現れている。』

ーやっと漢人町に着き、満員の二つの劇場をやり過ごし三つ目の劇場の桟敷席を得る。
 そこは手持ち不沙汰な人は一人もいない。誰もが食べるか飲むか煙草を吸うか
 していた。すべて男性。というのも、まともな女性が芝居に行くなど、慎みのない
 こととされているからであるー

『清国では、俳優はひどく軽侮されている。女性は俳優にならないしきたりになって
いるので、女の役は女装した男優によって演じられる。なよなよして豊かな髪をもち、
甘い声の彼らは女になりきるだけの演技力をそなえている。男役も女役も、衣装は
赤、黄、青、緑、または白の絹で、絹糸や金糸の素晴らしい刺繍で覆われている。・・・
平べったい太鼓や鐘、それに奇妙なヴァイオリン(胡弓か?)からなるオーケストラは、
文字通り、猫の大騒ぎのような音を出していた。歌も、ヨーロッパ人からすれば、
耳を引っかくような叫び声にしか聞こえなかった。それでも観客はしごくご満悦の体で、
詰め込み過ぎた胃から出てくるおくびの音を響かせながら、さかんに称賛の声を
あげていた。シナ人は拍手喝采することを知らない。
 こんな劇が二十分ほど続いたあと、おどけた芝居が始まった。これは実に素晴らしい
演技だったので、台詞がわからなくても意味はすべて理解できた。
 つづいてもう一つの別の劇が始まった。清国の劇場では幕間がないので、演目が
つぎつぎにかけられる。』

ー観劇後、もう夕方の七時。朝の五時から何も食べていないのに気がついた。北京を
 知ろうとする激しい情熱が食欲に勝っていたのだ。運よく同じ通りに一軒のレストラン
 を見つけ、主人と交渉、燕の巣を注文。シナ人につきものの不潔さを別にすればそんなに
 悪くなく、箸は使えないし皿もスプーンもないので、シナ人と同じようにスープ鉢に
 口をつけ、箸で巣を引き寄せながら啜った。
  長城を見たいという気持ちに変わりはなかったが、同時に長旅の疲れの不安も
 あったので、明日以降はまず長城を見に行き、北京見物はその後の一週間をあてる
 ことにする。アトションに、古北口への往復旅行用の馬車二台と鞍付きの馬一頭を
 借りにいかせ、翌朝四時に宿寺の僧たちに別れの挨拶をすませ、北に向かって
 出発した(馬車一台は予備)ー
 

『北京はとても大きな街で、城門にたどりつくまでに一時間以上もかかった。
街をぐるりと囲む城壁内に七百万人は住めるだろう。だが、実際の人口は百万人にも
満たないように見える。早朝だったので、道を歩いても乞食に悩まされることなく、
思う存分あたりを観察することができた。ときどき、白っぽい花崗岩でつくられた
石畳の残骸をみかけた。崩れた石造りの下水渠や欠けた軒蛇腹、破損して泥にほとんど
埋もれた塑像などがいたるところにあった。花崗岩の立派な石橋もたくさん目にした。
しかし、半ば崩れていたので渡ることができず、・・・北京の街のそれらすべてが、
いまや荒廃し堕落した国民を表していた。』

ーそうこうして、やっと夜六時、清国でいちばん清潔な都といわれる古北口に
 入った。古北口は満州との境付近に位置する高い山に囲まれた谷間の町であるー

『外国人がこの町まで来たことはめったにないから大騒ぎになった。オランウータンや
ゴリラが服を着てパリの大通りを歩いても、私ほど好奇の的にはならなかったのでは
ないだろうか。
 町の門を通るやいなや、群衆が私を取り囲み、宿屋までついてくるのはもちろん、
部屋の中まで入ってきた。・・・なお悪いことに、旅行の目的は何かときかれて、
アトションが長城を見ることだと答えてしまった。彼らはみんな大口を開けて笑い
だした。石を見るためだけに長く辛い旅をするなんと何と馬鹿な男だろうという
わけだ。
 どうしてもしなければならない仕事以外、疲れることは一切しないというのが
シナ人気質である。』


<参考>ヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(独:Johann Adam Schall von Bell、
    1591年 - 1666年8月15日)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB


<注>ー〇〇〇ーは説明拙文、『』は抜粋引用文、・・・は「中略」


老北京 @城門 A故宮 B市街 

東京ミチテラス
2016/01/07

▼「東京ミチテラス」 作者:写楽

http://www.digibook.net/d//b744cb3b804d1ce1e6a0a3c33bc78a69/?mag=20160106

シュリーマン旅行記 清国・日本(1)
2016/01/06

シュリーマン旅行記 清国・日本(1)

<ハインリヒ・シュリーマン>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

 トロイア遺跡の発掘で知られるハインリッヒ・シュリーマン。彼はその発掘に先立つ六年前、
世界旅行の途中、中国につづいて幕末の日本を訪れている。一ヶ月という短期間にも
かかわらず江戸を中心とした当時の日本の様子を、なんの偏見にも捉われず、
清新かつ客観的に観察した。執拗なまでの探求心と旺盛な情熱で、転換期日本の実像を
生き生きと活写したシュリーマンの
興味つきない見聞記。
 まず清国から、「シュリーマン旅行記 清国・日本 H・シュリーマン 石井和子訳」を
基に、興味深い記述のみを参考、引用、抜粋しながら、シュリーマンの軌跡を辿ってみよう。

<万里の長城>@

ー世界旅行の途中、上海に行った折、どうしても長城を訪ねたい気持ちを抑え切れない
 シュリーマンは天津経由北京へ船で向かう。1860年、清国と英仏間に締結された条約の
 結果、賠償金を支払い終えるまで、清国政府は自国の税務業務に外国人官吏を登用せざる
 を得なかったが、そうするとほどなく税収が大幅に増え、それまでの自国役人の腐敗堕落
 が明らかになり、それで清国政府は彼らを罷免し、代わりにシナ語を話せる外国人を
 雇うようになったー

『私は北京で、シナ語研修中の将来の税関吏たち六人に会った。ドイツ人一名、フランス人
一名、イギリス人二名にアメリカ人二名。みな以前は商社マンで、財を成すチャンスの少ない
母国よりも、独立した良い地位が得られる清国を選んだのである。しかしこれは事務職に
限って見られる現象ではないようだ。というのは、上海から天津まで、ベルリンのアランと
名乗る建築家と道連れになったのだが、彼はまず天津でシナ語を学び、それから税関吏に
なるために清国政府から渡航費用をもらって、ヨーロッパから着いたばかりであった。
彼はプロシアの首都に宮殿を建てるという、いつになったら得られるかわからない栄光より、
無能でも良い地位が保証され、有能なら輝かしい将来を開いてくれるシナ語の勉強のほうを
選んだというわけである』

ー大運河の合流点の天津の印象、これ以来、街の不潔感との闘いか始まるー

『天津の人口四十万を超え、その大部分は城外に住んでいる。私はこれまで世界のあちこち
で不潔な町をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の町はよごれている。しかも天津は確実に
その筆頭にあげられるだろう。街並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に
悩まされている』

ー天津到着の翌々日、二輪馬車二台で北京へ。ヨーロッパの馬車とは違い、拷問のような
 乗り心地に疲労困憊のあげく、翌日に北京に着く。城壁の威圧的で壮大さに圧倒される。
 城壁の内側でものすごく素晴らしいものと遭遇できるかと期待したが、しかしそれは
 ひどい間違いで、北京には、荷馬車曳きが泊まる、ぞっとするくらい不潔な旅籠を除けば、
 ホテルはなく、とある僧院と交渉、根切に値切り提示額の半額で泊まる。夜8時だったが
 食事もなく、この時間は北京中が眠っているということで、疲れきっていたこともあり、
 そのまま寝る。翌朝5時にアトション(従卒)が朝食を準備してくれたが、それは
 ひどい緑茶でヨーロッパならどんな貧しい労働者でも欲しがらないような代物、米も
 黄色くまずく、二本の箸も使い方がわからず、こんな哀れな朝食となったが、空腹は
 最上の御馳走で、極めて美味と感じる。食事の後、アトションに命じて鞍付きの馬を
 二頭捜し、午前6時、町を見物するために出発したー

『あの素晴らしい広東のいちばん広い通りでさえ道幅はニメートルもなかったのに、ここ
北京ではどんな細い道でも六メートルはある。ほとんどの通りは幅二十メートルで、三十
メートルのものも多く、中には五十〜六十メートルの道もある。どの家も二階建てで、燻し
煉瓦でできているので青みがかった色をしている。・・・ほとんどの通りにも、半ば
あるいは完全に崩れた家が見られる。ごみ屑、残滓、なんでもかんでも道路に捨てるので、
あちこちに山や谷ができている。ところどころに深い穴が口を開けているので、馬に乗って
いるときはよほど慎重でなければならない。
 どこに行っても、陽光を遮り、呼吸を苦しくさせるひどい埃に襲われ、まったくの裸か
惨めなぼろをまとっただけの乞食につきまとわれる。どの乞食もハンセン氏病を患って
いるか、胸の悪くなるような傷に覆われている。彼らは痩せこけた手を天に上げながら、
膝まづいて額を地にこすりつけ、大声で施物をねだる。胸を引き裂かれるような思いが
したが、私には彼らの苦痛を軽減してやることができない。』

ー罪人を見るー

『首のまわりに一メートル三十三センチ四方の板を水平につけられた罪人を、至るところで
みかける。彼らは手を口にもっていくことができないので、通行人に食べ物を恵んでくれる
ように頼み、さらにはそれを口に入れてくれるように懇願せざるをえない。板に取り付けられた
高札には、罪状と処罰期間がしるされている。ほかに重量約十キログラムの鉄塊や腕や
足に取り付けられた罪人もいる。これほどの重さを付けられて、さらに歩こうとすれば、
鉄塊を頭上に持ち上げるほかない。背中にはその悪行と処罰期間を示す札がつけられている。
以上の罪人は刑罰の道具の許すかぎり自由に町中を歩き回ることができる。ただし、一歩
町を出ようものなら死刑が待っている。
 漢人町の大通りの中央にある刑場を見たことがある。最近切られた男の首いくつかと
数ヶ月前のものらしい首いくつかが、鉄製の大きな鳥籠に入れられて曝してあった。
それぞれの籠に、死刑に値した罪状を知らせる高札が取り付けてある。』

ー纏足ー

『実際、シナでは、女性の美しさは足の小ささだけで計られる。九センチあまりの
小さな足の持ち主ならば、疱瘡の跡があろうが、歯が欠けていようが、禿頭だろうが、
十二センチの足の女性よりも百倍も美しいとされる。たとえ後者がヨーロッパ風の基準に
従えば目映いばかりの美しさをそなえていようとも、である。シナでは、小さい足は
未婚の若い女性に甘美な期待を抱かせ、既婚女性には誇りとなり、また貧者にとっては
慰めともなるものである。・・・
 私は、この国の習慣に由来するさまざまな障害を乗り越え、いくどかシナ女性の
素足を見ることができた。・・・
 さて、このように絶え間なく強い圧迫を加えられた結果、脚は踵の上の部分で太く、
鼠蹊部が異常に肥大する。シナの人が見れば、足の寸法で鼠蹊部の様子がわかる。
面白いことに、纏足作りはシナの女{清朝の漢族}だけがやることで、シナに住む
モンゴルの女たちには見られないことである。シナの女たちは、衣服や装身具には
どんな無頓着でも、お洒落の唯一の対象である足にだけは、いつも贅沢なものを
着けようとする。つまり通常は鮮やかな色の絹の三角布で足を包み、その上から
絹の赤か黒の短靴を履く。靴底は厚さ十センチの白塗りの革が使われる。
 北京の街にはボロ布しか身にまとっていない女乞食があふれているが、そういう女たち
でまともに靴を履いている者は見たためしがない。また、いうまでもなく、纏足に
靴を履かされた女たちは、まるで鵞鳥のようによたよたよろめいて歩く。』

<注>ー〇〇〇ーは説明拙文、『』は抜粋引用文、・・・は「中略」



@シュリーマン A清朝末期の北京   B纏足


新年のコンサート
2016/01/05

「椿姫」乾杯の歌
http://www.digibook.net/topic/famousmusic/classic_020/?mag=20160105

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