大江戸雑記


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見舞いしぐさ
2015/12/19

相手を思いやる江戸しぐさ 

「見舞いしぐさ」(みまいしぐさ)

同業者同士で助け合い!

見舞いと言っても、病気でふせっている人を元気づけるために訪れることではない。
見舞いしぐさとは、いわば陣中見舞いのこと。この場合の「陣」とは、店のことだ。

親しくしている店や、同業仲間の店の主人が、仕事や休養などで店を離れるとき、
留守を預かる番頭以下を慰労することである。

お互い様の行為で、同業として友人として、大黒柱の主人のいない間でも、
商売に支障がないよう、その店を盛りたてたのだ。

『向嶋言問姐さん』

六義園・晩秋の彩
2015/12/10

「六義園・晩秋の彩」 作者:写楽
http://www.digibook.net/d/72948f77a0cc36ede6463be1ddcc8b6f/?mag=20151209

岡目八目(おかめはちもく)
2015/12/07

「岡目八目(おかめはちもく)」

「岡目」ではなく、「傍目」という表記で記憶している方もおられると思いますが、
「当事者よりも第三者のほうが情勢や利害得失などを正しく判断できるものだ」と
いった意味です。囲碁から出た言葉で、対戦中の二人よりも脇で見ている人のほうが
先をよく見通すことがあるため、「八目先まで読める」という表現になったものの
ようです。

これはあらゆることについて言える格言で、それほど人間は感情の動物で、自分が
主体的に関わっていると客観視ができないということを戒めとして言い表している
のです。せっかくそんな格言まで用意しているのに、親しい人からの忠告に耳を
貸さなかったり、腹を立てたりしてしまう。人間とは本当に愚かしい生きものです。

岡目八目は集団としての民族についてもいえるようです。私たち日本人は自分たち
のことをよく理解していると思い込んでいますが、果たして本当にそうでしょうか。
日本をよく知る外国人の目から見たら、日本人が事実と思っていることが間違って
いるかもしれない。だからこそ、国際交流は大切なことなのです。

【おちゃのこ通信】VOL.235より

『「メサイア」ハレルヤ』
2015/12/02

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの
『「メサイア」ハレルヤ』


http://www.digibook.net/d/5ac4c95f918d1ee1eead8e5381a68347/?viewerMode=fullWindow

西郷隆盛に学んだ庄内藩士たち
2015/11/27

西郷に学んだ庄内藩士たちは「新しい日本をつくる同志」となった。

1.庄内の人々の西郷隆盛への敬慕

 世の中には不思議な付き合いがあるものだ。西郷隆盛と庄内藩(現在の山形県庄内地方)の人々との交流である。

 明治元(1868)年の戊辰戦争では、庄内藩は西郷隆盛率いる明治政府軍に降伏したのだが、西郷の高潔な態度に感激し、その後、藩主自ら70余名の藩士を率いて、薩摩に赴き、西郷に親しく教えを請う。

 西郷は明治10(1878)年の西南の役で戦没し、「逆賊(天皇への反逆者)」の汚名を着せられるが、明治22(1889)年、明治天皇が正三位を与えて汚名を晴らすや、旧庄内藩の人々は西郷の語った言葉をまとめた『南洲翁遺訓』を刊行し、風呂敷包みに背負って、全国に配布して回った。

 庄内の人びとの西郷への敬慕は現代まで続いており、昭和51(1976)年には南洲神社が創設され、「財団法人 庄内南洲会」が西郷の人徳を称える活動を続けている。

 人びとが一人の偉人をかくも純粋に敬慕した、いかにもわが国らしい美談である。今回はその経緯を辿ってみたい。


2.庄内藩の人々を感動させた明治政府軍

 慶応3(1867)年12月、江戸の薩摩藩邸に結集していた浪人たちが、江戸の治安を乱していた。江戸の治安維持を任されていた庄内藩士千人を中心とする5藩は、薩摩藩邸攻撃を命ぜられ、邸を砲撃し、焼き払った。この事件をきっかけに、鳥羽伏見での明治政府と徳川幕府との戦いが始まり、以後1年半ほどの戊辰(ぼしん)戦争が続く。

 庄内藩は会津藩、米沢藩などとともに幕府側に立ち、新政府側に立った秋田に攻め入って連戦連勝を重ねた。庄内藩はもともと良民を手厚く保護する藩政をとってきており、藩主・家臣・領民の結束が強かった。藩政を支えてきた商人・本間家も、スナイドル銃などの最新兵器購入のために莫大な献金をした。

 米沢藩、会津藩の降伏後も、庄内藩は最後まで藩領土への新政府軍の侵入を許さなかった。しかし庄内藩以外のすべての藩が降伏したので、明治元(1868)年9月、新政府軍に恭順の意を示した。

 このように最後まで頑強に新政府軍に戦ったので、庄内藩の人々はどれほど厳しい降伏条件を突きつけられるのか、と心配していた。

 しかし、勝者として庄内藩鶴ヶ岡城に入ってきた新政府軍は刀を持たず、丸腰だった。新政府軍の兵士の中には勝ちに奢って乱暴狼藉を働くかも知れないので、それを防ぐためだった。逆に敗者の庄内藩士には帯刀を許し、武士の面目を持たせた。これには庄内藩の人々が驚いた。

 しかも、新政府軍の使者としてやってきた薩摩藩の黒田清隆が示したのは、驚くほど寛大な条件だった。11代藩主・忠篤の謹慎、弟・忠宝への代替わりと、16万7千余石から12万石への減封であった。

 さらに黒田は、藩主の上座に座って、いちおうの「言い渡し」を終えると、ただちに藩主の下座に降り、「役目のために、ご無礼をいたしましたが、お許しください」と、礼儀正しい態度をとった。武士道を弁えた黒田の態度に、庄内藩の人々は心を動かされた。


3.「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」

 明治2(1869)年、庄内藩の家老として敗戦処理を進めた菅実秀(すげ・さねひで)が東京に出てきて、黒田に寛大な処置に対するお礼を述べた。すると、黒田は「あれは私の処置ではありません。すべて西郷先生の指示でやったことです」と明かした。

 新政府軍の指揮官だった西郷は、庄内藩が降伏した翌日にはすぐに帰ろうとした。まだ降伏したばかりで、後で何が起きるのか分からないので、黒田は西郷を止めた。

 けれども西郷先生は、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか。もう敵でも味方でもないよ』と、おっしゃったのです。


 菅は「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」と感動した。そして菅から西郷の話を聞いた庄内藩の人々の感動も察して余りある。

 翌明治3(1870)年、18歳だった前藩主・酒井忠篤は70余名の家臣を引き連れて、西郷に学ぶために鹿児島を訪れた。西郷は彼らを歓迎し、いろいろ話を聞かせてやった。

 忠篤は西郷の教えに感激し、大名気分を捨て去り、家臣たちと寝食を共にして過ごした。これら庄内藩の人々が西郷の言葉を記録に残したのが、後に『西郷南洲翁遺訓』としてまとめられたのである。


4.西郷の涙

『遺訓』の中には、西郷が庄内藩士たちに語った肉声がまざまざと感じられる一幕がある。こんな一節である。

 ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。

「国民の上に立って、政治にたずさわる者は、つねに慎みの心をもって、どこにいても品行正しく、贅沢をしないように心がけ、自分の仕事に一生懸命に取り組むような……、つまり人の手本になるような人でなければならないね。・・・

 ところが、近ごろの政府はどうだい。今は、これから何もかもはじめなければならないという、いわば時代の出発点に立っている大事な時期なのに、豪邸に暮らし、高価な服に身をつつみ、美しい女性を愛人にし、そして関心があることといったら、個人の財産を築くことばかり……。こんなことでは、何のために明治維新をなしとげたのか……、その本来の理想を達成することなど、とてもおぼつかないよ。

 あの鳥羽伏見の戦いにはじまって、五稜郭の戦いで終わった戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはずだよね。けれど、その戦いの結果できあがった新政府が、そんなありさまさ!

 今のままなら、どうなる? 結果的に、あの戦争は今の政府の高官たちの“利”のための戦いだった、ということになってしまうよ。

 こんなことでは、世の中の人々に対して、そして何より、あの戦いで戦場に散っていった戦没者たちに対しても、私は……本当に申しわけなくて……」

 そうおっしゃると西郷先生は、こみあげてくる思いを抑えきれずに、しきりに涙を流されていました。


 戊辰戦争を西郷の相手側として戦った当の庄内藩士たちも、この西郷の言葉には、涙をこらえきれなかったのではないか。


5.「日本を再生するための“義”の戦い」

 西郷は「戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはず」と言ったが、その「義」に関して次のように語っている。

「節操や道義……恥を知る心、こういうものを国民が失ったら、国は、とても持たないね。これは、西洋でも同じことだよ。

 たとえば、政治家や官僚や公務員などの上に立つ者が、国民から利益を得ることばかりを求めて、社会正義を忘れてしまったならば、どうなる?

 国民もその真似をして、その心は、どんどん拝金主義に向かい、いやらしい貪欲な心が、日を追うごとに国民の間に広がっていくよ。 ・・・

 そうなってしまったら……、いったい、どうやって国を維持すればいいんだい?


 道義を国民が失ったら、国は持たない。明治政府の高官たちが私利私欲にふけっている姿は、自ら国を壊している。それでは「日本再生のための義の戦い」と信じて、命を捧げていった戦没者たちに申し訳ない。その思いが西郷の涙となっていた。

 西郷が戊辰戦争を「日本再生のための義の戦い」と捉えていたことを知れば、『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか』と、庄内藩の人々に寛大に接した理由も理解できる。

 西郷は庄内藩士を「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」と称えていた。今後は日本の再生のために、ともに忠義を尽くして欲しい、というのが、西郷の願いだった。


6.「西洋は野蛮じゃ!」

 明治維新という「日本再生のための義の戦い」は、黒船の来航に象徴される欧米諸国の脅威の下で行われた。その欧米諸国について、西郷は省内藩士たちにこう語っている。

 ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。


「“文明”というのは、どういうことかわかるかい? それは、道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようすを、称えて言う言葉なんだ。けっして宮廷が大きくて立派だとか、人々の服装が美しくて綺麗だとか、そういう外から見た、フワフワした華やかさを言うのではないよ。 ・・・

 私は昔、ある人と議論したことがあるんだよ。その時、私は、こう言ったのさ。 『西洋は野蛮じゃ!』

 するとその人は、こう言った。 『いや、西洋は文明です』

 そこで私は、 『いいや、いいや……、野蛮じゃ!』と、たたみかけた。

 すると、その人はあきれて、 『どうして西洋のことを、それほどまでに悪くおっしゃるのですか?』と、不満そうに言い返してきた。

 そこで私は、こう言ってやったのさ。

『ほんとうに文明の国々なら、遅れた国には、やさしい心で、親切に説得し、その国の人々に納得してもらった上で、その国を発展させる方向に導いてやるんじゃないかな?

 けれど西洋は、そうではない。時代に遅れて、ものを知らない国であればあるほど、むごくて残忍なことをしてきたし、結局のところ、そうして自分たちの私利私欲を満たしてきたじゃないか。これを“野蛮”と言わないで、何を“野蛮”と言うんだい?』

 私がそう言ったら、その人は口をつぐんで、もう何も言わなくなったよ」

 そう言って、西郷先生はお笑いになりました。


 当時、欧米諸国はアジア・アフリカの諸国を植民地化し、搾取していた。支配者がその様では、国民全体が植民地根性を抱いて、私利私欲のために働くようになる。西洋の「野蛮」がアジア・アフリカに「野蛮」を生み出す。

 西郷は「文明」とは「道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようす」と考えた。西洋諸国に植民地化されてしまえば、そんな文明国にはなりえない。

 そうした西洋諸国の「野蛮」から、国を守ろうとすることが「攘夷」なのであった。著者・松浦光修・皇學館大学教授は次のように喝破している。

「攘夷」によって先人たちが護ろうとしていたものは、単なる“国益”ではありません。ここが大切なところなのですが、最終的に護ろうとしていたのは、“道義”なのです。

『後世への最大遺物』

 西郷から「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」と称えていた、そんな忠義の武士たちであったからこそ、西郷の道義あふれる振る舞いに感じ入り、前藩主が70余名もの藩士を引き連れて、西郷のもとに学びに来たのである。

 庄内藩士たちは、西郷の言葉に学んで「新しい日本をつくる同志」となったのであろう。西南戦争の12年後、明治天皇が西郷に正三位を追贈して名誉を回復されるや、『南洲翁遺訓』をまとめ、全国に広めようとしたのも、「新しい日本をつくる同志」としての志に違いない。

 西郷隆盛を『代表的日本人』の一人として描いた内村鑑三は、『後世への最大遺物』と題した講演で次のように語っている。

「誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思います。


 西郷隆盛と庄内藩士たちの「高尚なる生涯」は、現代の我々に贈られた「後世への最大遺物」そのものである。それをどう活かすかは、我々の生き方にかかっている。
(文責:伊勢雅臣) 

<注>一種独特の表現である「伊勢雅臣ワールド」だが、東北以外の人に案外知られていないエピソードなので、転載可のため一服の清涼剤?として掲載。

<参考資料>
秋田戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E6%88%A6%E4%BA%89

秋田前線の庄内軍の強さの理由
http://electronic-journal.seesaa.net/article/197609879.html

幕末の庄内藩は、幕末において、どのような役・・・
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1467208644

幕末・維新の町を行く「山形県鶴岡市」−領民と結ばれた深い絆−
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/turuoka.htm

画像@戊辰戦争を戦った酒井忠篤
  A秋田戦線
  B鶴ヶ岡城

飲めない武士は酒席でどうしたか?
2015/11/20

理不尽な「俺の酒が飲めないのか」…江戸時代の武士は意外な対応
http://www.mag2.com/p/news/122247

江戸時代にも100円ショップが存在した!?
2015/11/18

安くて豊富な品揃えが100円ショップのいいところ。
それと同じシステムのお店がなんと江戸時代にも存在した!?

江戸時代の100円ショップ | 十九文店

http://mark-t3963.com/edojidai-100/

秋を彩る“紅葉写真集”
2015/11/11

秋を彩る“紅葉写真集”
http://www.digibook.net/topic/special/kouyou2015/?mag=20151110

晩秋の青空を彩る“100機のバルーン"
2015/11/06

晩秋の青空を彩る“100機のバルーン"
http://www.digibook.net/d/f7d5aff7b0cab5c02e09f722a54f8f82/?mag=20151105

朝鮮通信使と雨森芳洲
2015/11/01

「朝鮮通信使と雨森芳洲」

 江戸時代の儒学者で、朝鮮との外交で「誠信」の心得を説いた雨森芳洲(あめのもり
ほうしゅう)。 ようやく日韓首脳会談が開かれる見通しになったとはいえ、両国が
真の未来志向へ転じるため、顧みられるべき人物。

http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L9/191021.htm

<対馬藩朝鮮方佐役>

元禄11年(1698年)、朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐役)を拝命。元禄15年(1702年)、
初めて朝鮮の釜山へ渡り、元禄16年(1703年)から同18年(1705年)にかけて釜山の
倭館に滞在して、朝鮮語を学んだ。この間、朝鮮側の日本語辞典『倭語類解』の編集に
協力し、自らも朝鮮語入門書『交隣須知』を作成した。 また、江戸幕府将軍の就任祝い
として派遣される朝鮮通信使に、6代・徳川家宣の正徳元年(1711年。正使は趙泰億)と
8代・徳川吉宗の享保4年(1719年。正使は洪致中)の2回、通信使の江戸行に随行した。
なお、吉宗の時の使節団の製述官であった申維翰が帰国後に著した『海遊録』に、
雨森芳洲活躍の姿が描かれている。

対馬藩の文教や朝鮮外交文書の専門職の真文役(記者)となった。篤実な人格で人々に
信頼を獲得して、名分や徳業を重視して、熱心に子弟の教育にあたった。

<隠居の日々>

享保5年(1720年)には朝鮮王・景宗の即位を祝賀する対馬藩の使節団に参加して釜山に
渡っている。 しかし、朝鮮人参密輸など藩の朝鮮政策に対する不満から、享保6年
(1721年)に朝鮮方佐役を辞任し、家督を長男の顕之允に譲った。その後は自宅に私塾を
設けて著作と教育の日々を過ごしたが、享保14年(1729年)、特使として釜山の倭館に
赴いた。享保19年(1734年)には対馬藩主の側用人に就任、藩政に関する上申書
『治要管見』や朝鮮外交心得『交隣提醒』を書いている。

宝暦5年(1755年)、対馬厳原日吉の別邸で死去した。享年88。諡は一得斎芳洲誠清府君。
墓は日吉の長寿院にあり、傍らに顕之允も葬られている。

思想的には大陸思想(小中華思想)を信仰し、自身が日本人である事を悔やみ
「中華の人間として生れたかった」と漏らした記録が後世に伝わる。(参考引用:ウィキペディア)

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